2016年04月24日

主日礼拝メッセージ「裁いてはいけません」マタイ7:1〜5

T.さばいてはいけません
 1.さばかれないためです
 この言葉だけ聞くと、この世的な処世術だと勘違いしてしまいそうです。確かに、学校の道徳の教科書や、新入社員の心得帳みたいなところに書いてあっても、違和感を感じない「教え」です。この聖書の御言葉をそのように読んで、読み進めることもできます。信仰を持たないままでも、聖書の言葉は読むことができます。今日の箇所は、まさにそういう箇所です。あなたがだれかを裁くなら、あなた自身も相手から、あるいは他の人から、同じように裁かれることになるのだ、という人生訓、忠告、とも読めます。
 イエス様は、弟子たちにそのような人生訓を教えようとされたのでしょうか。弟子の中には、「雷の子」とあだ名されたケンカっ早い人もいたからでしょうか。沢山の人がいつでも、イエス様の周りにひしめいていましたから、人間関係のトラブルはしょっちゅう起こっていたでしょう。その度に、イエス様は間に入り、両方の話を聞いて、仲介をし、言い分を聞き、それぞれにちゃんと教え諭し、仲直りをさせていたのかもしれません。そんな時、考えられる忠告が「あなた自身が裁かれないために、他人のことをむやみに裁いたりしないように」という忠告だったとも考えられます。
 とは言え、イエス様は「大切な教え」ではあるけれども、「単なる人生訓」を語ったのでしょうか。

 2.だれが裁き、だれが裁かれるのか
 ここで、注意したいのが、いったい「だれが裁き、だれが裁かれるのか」ということです。普通にここを読むと、「裁いてはいけません」は「あなたが、あなたの隣人を裁いてはいけない」という意味でしょうか。
 マタイ18章に出てくる「友人に憐れみを掛けてやらなかった、王様から大きな借金を赦してもらった男」の例え話が出てきます。その箇所を要約してみると、「あなたがたがあなたがたの友に対して、憐れみのない裁きをしてはいけません。天の父なる神さまがあなたがたに、同じように、憐れみのない裁きをしないためです」という意味になるでしょうか。
 そのようにだけ、ここのみ言葉を読むとすると、「あなた自身が大目に見てもらうために、あなたもあなたの隣人を大目に見てやりなさい」という意味になってしまいます。決して、聖書は悪に対して、罪に対して「大目に見てやれ」とは言っていません。ですから、改めて、この箇所のみ言葉によく耳を傾けてみるべきです。

U.何のために裁くのか
 *そのために、3〜5節のみ言葉を読んでみましょう。
 1.自分の目の梁に気が付かないのか
 自分の目に刺さっている「梁」に気がつかないなんていうことは、有り得ません。そんなことになっているなら、自分自身の目が見えず、「前が見えるはずがない」ですから、友人の「目の中のチリ」なんて見えるはずがないのです。そんな馬鹿なこと、「有り得ない話」です。でも、「人をさばく人」の目には、「梁が入っているのだ」とイエス様は言われるのです
 つまり、「自分のことを振り返れ」「自分の襟を正してから、人の行動や言葉遣いに文句をつけなさい」ということです。「あなた自身の目、あなた自身の心の内」を見てみろ、とおっしゃるのです。隣人を正してやろうとする「あなた自身の心」を省みてみなさい、ということです。

 2.あなたの動機はどこにあるのか
 友人のことを本当に心配して、チリを取り除けようとしているのでしょうか。もし、「自分の目に梁が入ったままなら」、友の目を傷つけてしまうかも知れないのです。
 次は、「何のために裁くのか」「なぜ裁くのか」と、自分の心に問うてみなさい、ということです。親切そうな顔をして、「チリを取らせてくれ」と言っているが、自分の心の内にある動機はどのようなものでしょうか。
 相手を貶めたい(おとしめたい)だけでしょうか。相手を馬鹿にして、自尊心を満足させたいからでしょうか。優越感に浸りたいだけではないのでしょうか。神さまは私たちに問いかけておられるのです。「あなたは、そのひと言をどんな動機で口にするのか」と。
 本当に「友を助けたい」のであれば、「裁くこと」「やり込めること」でなく、「諭すこと」、「教えること」、「忠告すること」などが考えられるはずです。そこには、イエス様が私たちに向けてくださったように「愛が必要」なのです。相手の間違いを指摘し、弱さを突いてみても、「相手は痛い思いをし、苦しみを味わうだけです。決して、それで間違いを犯し、つまずいている友が、「立ち直ったり」「回復したり」するわけではない。
 「人のことを裁こうとする」私の心には、いったいどんな思いがあるのでしょうか。まずは、そこから神さまに示していただき、神さまの前に、悔い改め、私たち自身が赦していただき、神様によって「私たち自身の心の傷が回復される」必要があるのです。そして、神さまの愛と憐れみをいただいて、その神様の愛で、私たちも「私たちの友を見ることができるなら」、憐れみの心をもって、友に近づき、正しい心で忠告してあげることができるのです。

 ですが、この御言葉を「自分自身を振り返り、自分自身を反省してみなさい」という教えだけで終わらせてしまっていいのでしょうか。もともと、ここで教えられていたのは「裁いてはいけません」という他者との関係です。それでは、「裁かないでどうするように」と教えられているのでしょうか。

V.では、どうすればよいのか
 1.あなたの目から梁が取り除きなさい
 ここで、まず大前提として、私たちが「気づくべきことがあります」。自分の目から、「梁を取り除ける」よりも前に、気づくべきことがあります。

 @「裁き人の立場に立たない」
 私たちは、知らないうちに、無意識の内に「裁き人の立ち場に立っている」ことがあるのです。それが、「罪人の姿」です。自分の罪を棚に上げて、他人の罪をあげつらい、批判し、貶めている。自分が神さまでもないのに「裁き人の立場に立っていること」こそ、「偶像礼拝の根っこ」と言えるでしょう。
 この心が、事実、イエス様を十字架につけたのです。イエス様の裁判の場所に集まっていた多くの群衆が、イエス様のことなど「よく知りもしなかった」でしょう。でも、祭司長や律法学者の言葉だけを鵜呑みにして、「イエスというやつは、そんなに悪いやつだったのか!? では死刑も当たり前だ!! 除いてしまえ!!」と。
 今日、ここにいて、礼拝に席に座っている私たちも、「イエス様の十字架には関係ない」とは言えない。私たちも、「あの群衆たちと同じ心」を持っているのではないでしょうか。自分の罪を棚に上げて、「裁き人の立場に立っている」心がないでしょうか。
 このことを肝に銘じるべきです。「私は誰かを裁いていないか」「誰かを批判していないか」、それだけでなく、そのことを内心、喜び、楽しみ、悦に入っていないか、と。私たちは、自分自身の心に見張りを立て、しっかりと見張る必要があるのです。そうしないと、私たちの心はすぐに「鼻を高くし、自分自身を高く挙げ、人を見下ろすようになる」のです。

 A「私の目に梁がある」ことを自覚して、「ヘリ下り、謙遜になる」
 詩篇 141:3 「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」
この御言葉により、自分自身の心をしっかりと見つめ、自分を「裁き人の立場に置かない」、このことを肝に銘じ、そのように歩むべきです。

 2.チリを取り除いてあげなさい
  *以上のことをしたうえで、ようやく「友の目から、チリを取り除けることができる」のです。
 @愛をもって
 これは、どこまでも「イエス様を模範に、イエス様をお手本に」です。まずは、「愛をもって」その人に近づき、愛の心をもって相手を理解しようと努力し、受け入れるのです。

 A罪を正し、罪を赦す
 聖書のみ言葉で相手を攻撃するのでなく、相手を「正しい、神さまの喜ばれる道へと導く」のです。それは「正す」だけでなく、「赦し、受け入れる」ことが必要です。

 B関係を回復する
 この最後のポイントが大事です。批判するだけ、裁くだけでは、人との関係が壊れてしまいます。でも、「チリを取り除く者」「愛をもって、正し、赦す」者は、その関係が回復するのです。もし、私たちが誰かに言葉を発したいなら、それが「相手を赦し、受け入れ、関係を回復し、関係を気づきあげるものなのか】を、自分自身に問うべきです。
 第1コリント 10:23の御言葉=「 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」

 C神さまが、私たちに願っておられること
 すべての人の祝福の基となることが、大切なポイントです。私たちをとおして、人々が「神様を知る」こと、「神さまに出会う」ことです。イエス様の十字架が、「彼自身のため」であることを知り、イエス様の十字架のもとに「罪の重荷を下ろし、罪の赦しを経験する」ことです。彼らが、神さまからの祝福を受けること。彼らが「罪赦される』だけでなく、イエス様のいのち、永遠の命に生かされて、次の人々の祝福の基となっていくこと。彼らが、そのような幸いな人生を歩み始めること、それがこの御言葉をとおして、「神様が私たちに与えてくださる祝福」なのです。 


posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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