2016年05月08日

主日礼拝メッセージ「狭い門から入りなさい」マタイ7:13、14

 今日の箇所は、山上の説教の中でも、特に「短い箇所」です。ところで、あなたがその日、イエス様のところに来ていた弟子たちの、あるいは群衆の一人だとして「狭い門から入りなさい」と教えられたら、どんなふうに思っただろうか、と想像してみてください。この話を、すんなりと受け取ることができたでしょうか?それとも、せっかく遠くからやってきたというのに、「見出す者はまれ」ということは「祝福を受ける人は少ない」ということか? イエス様は何を話しているんだ? と、感じたのではないでしょうか。

T.狭い門からと言われると
 1.もしそれがラーメン屋さんなら・・・
 もしその門が「ラーメン屋さんの門なら」、どちらを選びますか。狭いよりは「広いほう」を。誰も行かない方よりは、「みんなが行くほう」を。目立たない方よりは、「よく目立つほう」を選ぶでしょう。行列のできるお店は「美味しいお店だ」とよく言われますから。
 でも、ここで話されているのは、「ラーメン屋さん捜しの話」ではない。私たちの人生の選択の話です。私たちが、自分の人生において幸いを見つけ出し、救いを得る、究極の幸福を得る道を選び取る場合は、どうなのか、と問いかけてくるわけです。

 2.私たちが目指している姿は
 私たち教会が目指している教会の姿は、イエス様の教えよりは「ラーメン屋捜しの基準」に近いのではないか、と感じます。私たちが日頃、伝道しようと思う時、気にしていることはなんでしょうか?教会に、いかに敷居を低く感じてもらい、教会の門をくぐってもらえるだろうか?例えば、英会話教室をしてみたり、音楽会をしたり。教会にいろんな施設があるか、とか、青年たちにも楽しい機会が提供できるか、などでしょう。
 それは、もしかすると「門を広げ、目立つようにしている」ことかもしれない、と思うのです。それ自体は悪いわけではないのですが、その門の先に「救いがあるかどうか」に、もっと注意を向ける必要があります。いや、イエス様の時代ですら「救いの門は狭かったし、その門を通る人はまれだったのだ」ということが真実の姿です。

U.狭い門から入るために
 ここで、イエス様が語っているのは、「人々を迎えるべき門がどういう姿であるべきか」という話をしてはいないのです。それよりも、門を通ろうとする人々に「どういう門を通るべきなのか」と話しておられるのです。

 1.門の外観のことではない
 「狭い門、人の行かない門」ならよいのか?言葉通りを読めば「それでいい」はずですが、単なる「狭い門」が祝福や幸い、救いを約束しているわけではないのです。狭くても、滅びに至る門はあるでしょう。人が行かない、見つけにくい門でも、救いにつながらない門もあるでしょう。当たり前のことですが、ここで言われている「門の外見」や「人の評判に気をつけなさい」ということではない。これは、私たちの「人生の選び方」に対する警告です。

 2.自分でしっかりと見極めて
 「人の評価や外観に惑わされるな」と、警告しているのです。外見に惑わされず、人の意見に左右されず、私たち自身の目で見て、耳で聞いて、きちんと選びなさい、ということです。私たちは、どこか「受け身で、他人任せで、消極的」過ぎてはいないか。「周りを気にして、周りと協調することに長けている」日本人として。クリスチャンとしても「とても受身的」なのかもしれない。教会で教えられるままに、牧師からメッセージで語られるままに。
 パウロの伝道旅行の途中で出会った「ベレア」の兄姉は、「果たしてその通りかどうかと、聖書を調べた」と使徒の働きに書かれています。彼らは、パウロの言葉だと言って「鵜呑みにすることなく」、しっかりと聖書を調べ、自分の目で確かめ、自分の信仰で判断して、「主の道を選びとっていった」のです。
 現在のような「世間が、なんとなく、人の意見を伺い、気に掛け、なんとなく同じ意見になるように」という同調圧力を感じている時代だからこそ、私たち自身は、何を信じているのか。何を選びとっているのか。しっかりと「自分の思いと信仰で選びとり」「自分の言葉でちゃんと説明できる」必要があるのです。

V.狭い門から入るとは
 では、私たちは改めて、どのような「狭い門」を通るべきなのでしょうか。

 1.イエス様が指し示す門
 別の言い方で言えば、「イエス様を指し示す門」、「聖霊なる神さまが指し示し、導いれられる門」といえば良いでしょう。
 それは「多くの人が入っていく」門ではないかもしれません。教会は「この世の人がこぞって入っていく門」ではないのかもしれません。しかし、そこは「本当の救いに至る門」です。それは「罪の悔い改めを求められる」狭い門です。それは「イエス・キリストの十字架」という「たったひとつの門」です。けれども、そのキリストの門は「確かに、私たちを滅びからいのちへ、滅びから救いへと導く確かな門です。
 そして、それが真に「教会のあるべき姿」です。もちろん、ここで言われている『狭い門」はイエス様、そのものです。でも、それをこの世に指し示していくのは、イエス様を主をして従う教会であり、イエス様を私の救い主として信じる私たちクリスチャンの一人ひとりなのです。私たちが門そのものではないけれども、私たちがその「狭い門」であるイエス様を指し示し、表しているのか、そのように歩んでいるのか、を教えられるところです。
 そんなことは、とても畏れ多いことと思えます。私のような者が「イエス様を指し示すなんて」と。でも、神さまは私たちにこの大切な使命を与え、私たちにその働きを任せてくださっているのです。私たちのつたない言葉を通し、私たちの足りない行動を通して、ご自分の救いと栄光を「この世に現そうとしておられる」のです。私たちは、そのことに恐れおののきつつ、感謝をしながら、歩む必要があります。

 2.イエス様のように歩む道
 そして、もう一つ。この「狭い門」は、「一旦くぐったら、それでOK!それがゴール!」という門ではなく、「門の後ろに続いている、救いに至る道、天に至る道を」歩み続けるかどうか、も私たちに問うているのです。その道は、イエス様が歩まれた道です。
 イエス・キリストという門を通ったら、「イエス様のように歩む道」が待っているのです。それは、「この世的に成功した、恵まれた歩み」ではないかもしれません。しかし、その道、その歩みは「イエス様のように歩む道」です。
 狭い門を通ったから、「イエス様の歩み」が約束されているのではありません。かえって、「イエス様の門を通ったからこそ、私たちキリスト者には「イエス様のような歩み」が求められているのであり、日ごとにチャレンジされている」のです。人には「損と思える歩み」でしょうし、「自分自身も時には、苦しい歩み」でしょう。けれども、その歩みを続けるからこそ、私たちは「イエス様のいのちに生かされる」のであり、「イエス様の思いを知る」のですその道を歩む時、私たちは「神さまが、そしてイエス様がどれほど私たちを愛していてくださり、日々に私たちのことを目に留めていてくださるのか」を知るのです。そして、そのような歩みの結末にこそ、「天の御国」「栄光の門」が待っているのです。
 イザヤ書30:21。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」


posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月01日

主日礼拝メッセージ「神さまに祈り求めますか」マタイ7:7〜12

 人気の遊園地USJのなかでも人気のアトラクションは、小説「ハリー・ポッター」を題材にしたものだそうです。マジックを使って、自分の思い通りのことが実現できる、というのが人気の秘訣なのでしょうか。実際の生活では、なかなかそんなふうに「思い通りに事が運ぶ」などということはないのですが…。

T.求めなさい、そうすれば・・・
 1.この御言葉を読む時
 聖書の言葉の中でも、似たような御言葉があります。マタイ21:22「信じて祈り求めるなら、なんでも与えられます」やヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい」など。他にも、ヨハネ14章や15:16などにも、同じような御言葉があります。
 けれども、間違えてはいけないことは、これらの御言葉は「ハリー・ポッターのまじない』とは違うということです。そんなことは当たり前でしょ、と思うかもしれませんが、私たちは心のどこかで、あのおまじないと同じように、聖書のみ言葉を唱えるだけで「願いがかなわないかな!?』と思っているのではないか、と思います。
 実際のところ、『どうすれば、私たちが願うとおりに」求め、探し、叩く通りに、応えていただけるのでしょうか。

 2.祈りが叶えられた経験がありますか
 皆さんの中には、「祈りが答えられた」経験のある方がおられて、その時のことを話してもらうことはできるでしょう。でも、多くの人が「祈りがなかなか叶えられない。答えてもらえない」という経験をしておられることと思います。私たちには、一体何が足りないのでしょうか。どういう求め方、祈り方をすれば、叶えられるのでしょうか。
 ハリー・ポッターの小説に出てくる少年たちのように、練習が足りないからでしょうか。それとも、何か、特別な呪文のようなものがあって、それを教えてもらってないからでしょうか。それを教えてもらうためには、特別に熱心に信仰するか、一生けん命奉仕しないといけないのでしょうか。

 3.「〜し続けなさい」
 新改訳聖書のこの箇所の脚注を見ると、「〜しつづけなさい。そうすれば〜」というふうに訳すことができるのだ、と説明されています。だったら、最初から『求め続けなさい、そうすれば与えられます』と翻訳してくれれば良いと思いますが。
 そのように翻訳していないというのは、叶えられない、答えられない理由が『〜し続けていないから』だけではないという意味でしょう。もちろん、「祈り続ける、求め続ける」ことも大切なことですが・・・

 4.この御言葉を思い巡らす時
 この御言葉を思い巡らす時、大切なことを教えられます。それは、この御言葉に耳を傾け、その御言葉に向きあい、その御言葉によって心を探られる時、『神さまが何を語ろうとしておられるのか』と思い巡らすように、と導かれるのです。
 それらの思い巡らしの中から教えられることは、1)私たちは、ほんとうのところ、「どうしてほしい」と願っているのだろうか、ということ。2)神さまが必ず答えを与えてくださる、と信じて祈り、求め続けるか、ということです。

U.何を求めているのか
 1.私たちの求めている祈りの答えは
 私たちは、この御言葉に励まされて、神さまに祈り、求めます。一生けん命求めます。時には、断食して祈り求めます。御言葉のとおりに、求めます → 捜してみます → 叩いてみます。脚注にあるように祈り、求め続けます。それでも、答えられず、叶えられない時があるのです。
 それで、どうなりますか? あきらめますか?いいえ、その時こそ、神様のご機嫌を伺うばかりでなく、私たち自身の心に問う必要があるのです。「私は、一体、何を求めているのか?」と。
 例えば、あなたが就職や進学、将来の結婚のこと、そして今悩んでいる人間関係のことなどを祈っているとします。私たちは、その「祈りの答え」を一生けん命求めます。でも、ひとつ、忘れてはならない、大切なことがあります。9、10節です。天の父なる神様は、『私たちに良き物をくださる」と約束されていることです。
 では、私たちはいったい「神さまに、何を求めているのでしょうか」。

 2.どうしてほしいのか
 ヨハネ5章に登場するベテスダの池で、38年も臥せっていた人に、イエス様は聞かれた。「よくなりたいか?」と。彼は、あまりに長い間、臥せっていたので、「自分が良くなりたいかどうか」すら、わからなくなっていたのです。私たちも彼と似ていて、「どうなってほしいのか」分からない時があります。
 私たちはさまざまな祈りをします。その祈りは、『テストで良い点が取れるように』であったり、『願っている学校に、願っている会社に入れるように』であったりします。でも、それが叶えられたからといって、『どういう人生を送ることを求めている』というのでしょうか。良い出会いがあり、良い人と結婚をして、赤ちゃんが生まれて、素敵な家庭を築きたいと願います。その願いは素晴らしいが、その願いが叶うとして、どのような生涯を歩もうとしているのでしょうか。
 私たちの祈り、願い、「求め、捜し、叩く」歩みは、ここに至るのです。「あなたは何を求めているのか」「あなたはどうして欲しいのか」、と神さまが問いかけておられるのです。私たちは、神さまのこの問いかけに「答える」事が大事です。私たちが、この問いかけにまごころから答え、神さまに祈り、願う時、それこそが、本当の私たちの心からの祈りなのです。

V.私たちの信じる神様は
 1.あなたの願うとおりに、と言われる神様
 ここまで、御言葉についてお話しをしてきて、どう思われましたか?「本当にそのとおりだ」と、信じることができましたか?それとも、「いやいや、それでもまだ、本当に神さまが応えてくださるかどうか、分からない」と言われるでしょうか。聖書の中で確かに、神さまはそのように約束しておらえれるのです

 2.聖書に記されている祈りの答えを見て下さい
 アブラハムやヤコブは何を祈り求めたでしょうか?エジプトにいたイスラエルの民は、荒野を旅した民は、何を願ったでしょうか?ダビデや多くの勇士たち、神様の御言葉を語り続けた預言者や民を導いた士師たちは?イエス様の12弟子や、福音宣教に立ち上がったパウロたちは、何を求めたでしょうか。
 彼らには、それぞれの祈りがあり、願いがありました。みんな、それぞれの心からの祈りでした。たとえば、アブラハムは「子孫、子ども」を求めたでしょう。荒野の民は、「食べ物や飲み物。約束の国での平安な暮らし」でしょうか。イエス様の弟子たちは、ある者は「右大臣、左大臣」になりたかったでしょうし、パウロは「出かけていくまちまちで、ひとりでも多くの人がイエス様の救いを信じ、受け入れる」事だったでしょう。みんな、バラバラの祈りと願いです。
 でも、共通しているのは、最終的に、「彼らそれぞれにとって」、最高の答えを神さまが与えてくださった、ということ。もしかすると、彼らの「願っていたものと違う」答だったかもしれません。あるいは、願った通りの答えが与えられた人もいるでしょう。最終的な祈りの結論は、「神さまは確かに、彼らの祈りと願いを聞かれた」こと、=そして、「それぞれの人にふさわしい祈りの答えを与えられた」ということです。

 3.神様ご自身をどのような方として信じているのか
 私たちが、今日の御言葉で確認すべきことは、神さまは私たちに「最善をなして、その生涯を導いてくださる」ということです。その神さまが私たちに、日毎に目を留めていてくださり、私たちに向かって「わたしに求めてごらん」「わたしのところにきて、わたしのふところから「あなたの答えを探してごらん」、「わたしのところに来て、わたしの戸をたたき、わたしが答えるまで叩き続けてごらん」と言っておられるのです。
 御言葉は、私たちに問いかけてきます。「わたしがあなたの祈りと願いに、答えられる神だと、信じているか」と。)私たちは、この信仰がなければ、「求め続ける」ことも「捜し続ける」ことも「叩き続けることもできません。私たち自身の心の中に、神様に対する「この信仰がないなら」、神さまに与えていただきましょう。神さまの側が、私たちを愛し、私たちを見出し、私たちのためにイエス様の十字架の救いを完成させ、私たちに「最高の答えを与えようと」しておられるのです。
 「インマヌエルの神」であるということ。それは、「私たちと共におられる」ということです。それだけでなく、私たちの日々の歩み、日々の行い、日々の思いに「寄り添ってくださる」ということです。私たちが経験した悔しさも悲しみも、痛みも喜びも、全部、共にいて「見ていてくださり共に喜び、共に受け止めてくださる」神様なのです。だから、「私たちの心を知って、私たちの祈りに、願いに答えようとしてくださる」神様なのです。
 だから、「わたしのもとに重荷を下ろしなさい」と慰めてくださるのです。だから、「わたしがあなたの砦、いわお、盾であり、あなたを守る神だ」と言われるのです。その神さまが、私たちが祈り求める時、パンを与えて欲しいと願っているなら、「最高のパンを与えてくださる」のです。肉を与えて欲しいと願うなら、「最高の肉を与えてくださる」のです。そのパンや肉は、私たちの求めているものとは違うかもしれません。でも、最高に「私たちの体を強め、私たちの喉の渇きを癒やす」物を与えてくださるのです。その最高の助け、慰め、励ましが、「イエス様の十字架」であり、「私たちの心に住まわれる聖霊なる神さま』なのです。
 ここまでして、「私たちに、最高、最善の答えを与えようとしておられる」神さまを、信じて従っていきましょう。
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月24日

主日礼拝メッセージ「裁いてはいけません」マタイ7:1〜5

T.さばいてはいけません
 1.さばかれないためです
 この言葉だけ聞くと、この世的な処世術だと勘違いしてしまいそうです。確かに、学校の道徳の教科書や、新入社員の心得帳みたいなところに書いてあっても、違和感を感じない「教え」です。この聖書の御言葉をそのように読んで、読み進めることもできます。信仰を持たないままでも、聖書の言葉は読むことができます。今日の箇所は、まさにそういう箇所です。あなたがだれかを裁くなら、あなた自身も相手から、あるいは他の人から、同じように裁かれることになるのだ、という人生訓、忠告、とも読めます。
 イエス様は、弟子たちにそのような人生訓を教えようとされたのでしょうか。弟子の中には、「雷の子」とあだ名されたケンカっ早い人もいたからでしょうか。沢山の人がいつでも、イエス様の周りにひしめいていましたから、人間関係のトラブルはしょっちゅう起こっていたでしょう。その度に、イエス様は間に入り、両方の話を聞いて、仲介をし、言い分を聞き、それぞれにちゃんと教え諭し、仲直りをさせていたのかもしれません。そんな時、考えられる忠告が「あなた自身が裁かれないために、他人のことをむやみに裁いたりしないように」という忠告だったとも考えられます。
 とは言え、イエス様は「大切な教え」ではあるけれども、「単なる人生訓」を語ったのでしょうか。

 2.だれが裁き、だれが裁かれるのか
 ここで、注意したいのが、いったい「だれが裁き、だれが裁かれるのか」ということです。普通にここを読むと、「裁いてはいけません」は「あなたが、あなたの隣人を裁いてはいけない」という意味でしょうか。
 マタイ18章に出てくる「友人に憐れみを掛けてやらなかった、王様から大きな借金を赦してもらった男」の例え話が出てきます。その箇所を要約してみると、「あなたがたがあなたがたの友に対して、憐れみのない裁きをしてはいけません。天の父なる神さまがあなたがたに、同じように、憐れみのない裁きをしないためです」という意味になるでしょうか。
 そのようにだけ、ここのみ言葉を読むとすると、「あなた自身が大目に見てもらうために、あなたもあなたの隣人を大目に見てやりなさい」という意味になってしまいます。決して、聖書は悪に対して、罪に対して「大目に見てやれ」とは言っていません。ですから、改めて、この箇所のみ言葉によく耳を傾けてみるべきです。

U.何のために裁くのか
 *そのために、3〜5節のみ言葉を読んでみましょう。
 1.自分の目の梁に気が付かないのか
 自分の目に刺さっている「梁」に気がつかないなんていうことは、有り得ません。そんなことになっているなら、自分自身の目が見えず、「前が見えるはずがない」ですから、友人の「目の中のチリ」なんて見えるはずがないのです。そんな馬鹿なこと、「有り得ない話」です。でも、「人をさばく人」の目には、「梁が入っているのだ」とイエス様は言われるのです
 つまり、「自分のことを振り返れ」「自分の襟を正してから、人の行動や言葉遣いに文句をつけなさい」ということです。「あなた自身の目、あなた自身の心の内」を見てみろ、とおっしゃるのです。隣人を正してやろうとする「あなた自身の心」を省みてみなさい、ということです。

 2.あなたの動機はどこにあるのか
 友人のことを本当に心配して、チリを取り除けようとしているのでしょうか。もし、「自分の目に梁が入ったままなら」、友の目を傷つけてしまうかも知れないのです。
 次は、「何のために裁くのか」「なぜ裁くのか」と、自分の心に問うてみなさい、ということです。親切そうな顔をして、「チリを取らせてくれ」と言っているが、自分の心の内にある動機はどのようなものでしょうか。
 相手を貶めたい(おとしめたい)だけでしょうか。相手を馬鹿にして、自尊心を満足させたいからでしょうか。優越感に浸りたいだけではないのでしょうか。神さまは私たちに問いかけておられるのです。「あなたは、そのひと言をどんな動機で口にするのか」と。
 本当に「友を助けたい」のであれば、「裁くこと」「やり込めること」でなく、「諭すこと」、「教えること」、「忠告すること」などが考えられるはずです。そこには、イエス様が私たちに向けてくださったように「愛が必要」なのです。相手の間違いを指摘し、弱さを突いてみても、「相手は痛い思いをし、苦しみを味わうだけです。決して、それで間違いを犯し、つまずいている友が、「立ち直ったり」「回復したり」するわけではない。
 「人のことを裁こうとする」私の心には、いったいどんな思いがあるのでしょうか。まずは、そこから神さまに示していただき、神さまの前に、悔い改め、私たち自身が赦していただき、神様によって「私たち自身の心の傷が回復される」必要があるのです。そして、神さまの愛と憐れみをいただいて、その神様の愛で、私たちも「私たちの友を見ることができるなら」、憐れみの心をもって、友に近づき、正しい心で忠告してあげることができるのです。

 ですが、この御言葉を「自分自身を振り返り、自分自身を反省してみなさい」という教えだけで終わらせてしまっていいのでしょうか。もともと、ここで教えられていたのは「裁いてはいけません」という他者との関係です。それでは、「裁かないでどうするように」と教えられているのでしょうか。

V.では、どうすればよいのか
 1.あなたの目から梁が取り除きなさい
 ここで、まず大前提として、私たちが「気づくべきことがあります」。自分の目から、「梁を取り除ける」よりも前に、気づくべきことがあります。

 @「裁き人の立場に立たない」
 私たちは、知らないうちに、無意識の内に「裁き人の立ち場に立っている」ことがあるのです。それが、「罪人の姿」です。自分の罪を棚に上げて、他人の罪をあげつらい、批判し、貶めている。自分が神さまでもないのに「裁き人の立場に立っていること」こそ、「偶像礼拝の根っこ」と言えるでしょう。
 この心が、事実、イエス様を十字架につけたのです。イエス様の裁判の場所に集まっていた多くの群衆が、イエス様のことなど「よく知りもしなかった」でしょう。でも、祭司長や律法学者の言葉だけを鵜呑みにして、「イエスというやつは、そんなに悪いやつだったのか!? では死刑も当たり前だ!! 除いてしまえ!!」と。
 今日、ここにいて、礼拝に席に座っている私たちも、「イエス様の十字架には関係ない」とは言えない。私たちも、「あの群衆たちと同じ心」を持っているのではないでしょうか。自分の罪を棚に上げて、「裁き人の立場に立っている」心がないでしょうか。
 このことを肝に銘じるべきです。「私は誰かを裁いていないか」「誰かを批判していないか」、それだけでなく、そのことを内心、喜び、楽しみ、悦に入っていないか、と。私たちは、自分自身の心に見張りを立て、しっかりと見張る必要があるのです。そうしないと、私たちの心はすぐに「鼻を高くし、自分自身を高く挙げ、人を見下ろすようになる」のです。

 A「私の目に梁がある」ことを自覚して、「ヘリ下り、謙遜になる」
 詩篇 141:3 「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」
この御言葉により、自分自身の心をしっかりと見つめ、自分を「裁き人の立場に置かない」、このことを肝に銘じ、そのように歩むべきです。

 2.チリを取り除いてあげなさい
  *以上のことをしたうえで、ようやく「友の目から、チリを取り除けることができる」のです。
 @愛をもって
 これは、どこまでも「イエス様を模範に、イエス様をお手本に」です。まずは、「愛をもって」その人に近づき、愛の心をもって相手を理解しようと努力し、受け入れるのです。

 A罪を正し、罪を赦す
 聖書のみ言葉で相手を攻撃するのでなく、相手を「正しい、神さまの喜ばれる道へと導く」のです。それは「正す」だけでなく、「赦し、受け入れる」ことが必要です。

 B関係を回復する
 この最後のポイントが大事です。批判するだけ、裁くだけでは、人との関係が壊れてしまいます。でも、「チリを取り除く者」「愛をもって、正し、赦す」者は、その関係が回復するのです。もし、私たちが誰かに言葉を発したいなら、それが「相手を赦し、受け入れ、関係を回復し、関係を気づきあげるものなのか】を、自分自身に問うべきです。
 第1コリント 10:23の御言葉=「 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」

 C神さまが、私たちに願っておられること
 すべての人の祝福の基となることが、大切なポイントです。私たちをとおして、人々が「神様を知る」こと、「神さまに出会う」ことです。イエス様の十字架が、「彼自身のため」であることを知り、イエス様の十字架のもとに「罪の重荷を下ろし、罪の赦しを経験する」ことです。彼らが、神さまからの祝福を受けること。彼らが「罪赦される』だけでなく、イエス様のいのち、永遠の命に生かされて、次の人々の祝福の基となっていくこと。彼らが、そのような幸いな人生を歩み始めること、それがこの御言葉をとおして、「神様が私たちに与えてくださる祝福」なのです。 
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。