2016年05月08日

主日礼拝メッセージ「狭い門から入りなさい」マタイ7:13、14

 今日の箇所は、山上の説教の中でも、特に「短い箇所」です。ところで、あなたがその日、イエス様のところに来ていた弟子たちの、あるいは群衆の一人だとして「狭い門から入りなさい」と教えられたら、どんなふうに思っただろうか、と想像してみてください。この話を、すんなりと受け取ることができたでしょうか?それとも、せっかく遠くからやってきたというのに、「見出す者はまれ」ということは「祝福を受ける人は少ない」ということか? イエス様は何を話しているんだ? と、感じたのではないでしょうか。

T.狭い門からと言われると
 1.もしそれがラーメン屋さんなら・・・
 もしその門が「ラーメン屋さんの門なら」、どちらを選びますか。狭いよりは「広いほう」を。誰も行かない方よりは、「みんなが行くほう」を。目立たない方よりは、「よく目立つほう」を選ぶでしょう。行列のできるお店は「美味しいお店だ」とよく言われますから。
 でも、ここで話されているのは、「ラーメン屋さん捜しの話」ではない。私たちの人生の選択の話です。私たちが、自分の人生において幸いを見つけ出し、救いを得る、究極の幸福を得る道を選び取る場合は、どうなのか、と問いかけてくるわけです。

 2.私たちが目指している姿は
 私たち教会が目指している教会の姿は、イエス様の教えよりは「ラーメン屋捜しの基準」に近いのではないか、と感じます。私たちが日頃、伝道しようと思う時、気にしていることはなんでしょうか?教会に、いかに敷居を低く感じてもらい、教会の門をくぐってもらえるだろうか?例えば、英会話教室をしてみたり、音楽会をしたり。教会にいろんな施設があるか、とか、青年たちにも楽しい機会が提供できるか、などでしょう。
 それは、もしかすると「門を広げ、目立つようにしている」ことかもしれない、と思うのです。それ自体は悪いわけではないのですが、その門の先に「救いがあるかどうか」に、もっと注意を向ける必要があります。いや、イエス様の時代ですら「救いの門は狭かったし、その門を通る人はまれだったのだ」ということが真実の姿です。

U.狭い門から入るために
 ここで、イエス様が語っているのは、「人々を迎えるべき門がどういう姿であるべきか」という話をしてはいないのです。それよりも、門を通ろうとする人々に「どういう門を通るべきなのか」と話しておられるのです。

 1.門の外観のことではない
 「狭い門、人の行かない門」ならよいのか?言葉通りを読めば「それでいい」はずですが、単なる「狭い門」が祝福や幸い、救いを約束しているわけではないのです。狭くても、滅びに至る門はあるでしょう。人が行かない、見つけにくい門でも、救いにつながらない門もあるでしょう。当たり前のことですが、ここで言われている「門の外見」や「人の評判に気をつけなさい」ということではない。これは、私たちの「人生の選び方」に対する警告です。

 2.自分でしっかりと見極めて
 「人の評価や外観に惑わされるな」と、警告しているのです。外見に惑わされず、人の意見に左右されず、私たち自身の目で見て、耳で聞いて、きちんと選びなさい、ということです。私たちは、どこか「受け身で、他人任せで、消極的」過ぎてはいないか。「周りを気にして、周りと協調することに長けている」日本人として。クリスチャンとしても「とても受身的」なのかもしれない。教会で教えられるままに、牧師からメッセージで語られるままに。
 パウロの伝道旅行の途中で出会った「ベレア」の兄姉は、「果たしてその通りかどうかと、聖書を調べた」と使徒の働きに書かれています。彼らは、パウロの言葉だと言って「鵜呑みにすることなく」、しっかりと聖書を調べ、自分の目で確かめ、自分の信仰で判断して、「主の道を選びとっていった」のです。
 現在のような「世間が、なんとなく、人の意見を伺い、気に掛け、なんとなく同じ意見になるように」という同調圧力を感じている時代だからこそ、私たち自身は、何を信じているのか。何を選びとっているのか。しっかりと「自分の思いと信仰で選びとり」「自分の言葉でちゃんと説明できる」必要があるのです。

V.狭い門から入るとは
 では、私たちは改めて、どのような「狭い門」を通るべきなのでしょうか。

 1.イエス様が指し示す門
 別の言い方で言えば、「イエス様を指し示す門」、「聖霊なる神さまが指し示し、導いれられる門」といえば良いでしょう。
 それは「多くの人が入っていく」門ではないかもしれません。教会は「この世の人がこぞって入っていく門」ではないのかもしれません。しかし、そこは「本当の救いに至る門」です。それは「罪の悔い改めを求められる」狭い門です。それは「イエス・キリストの十字架」という「たったひとつの門」です。けれども、そのキリストの門は「確かに、私たちを滅びからいのちへ、滅びから救いへと導く確かな門です。
 そして、それが真に「教会のあるべき姿」です。もちろん、ここで言われている『狭い門」はイエス様、そのものです。でも、それをこの世に指し示していくのは、イエス様を主をして従う教会であり、イエス様を私の救い主として信じる私たちクリスチャンの一人ひとりなのです。私たちが門そのものではないけれども、私たちがその「狭い門」であるイエス様を指し示し、表しているのか、そのように歩んでいるのか、を教えられるところです。
 そんなことは、とても畏れ多いことと思えます。私のような者が「イエス様を指し示すなんて」と。でも、神さまは私たちにこの大切な使命を与え、私たちにその働きを任せてくださっているのです。私たちのつたない言葉を通し、私たちの足りない行動を通して、ご自分の救いと栄光を「この世に現そうとしておられる」のです。私たちは、そのことに恐れおののきつつ、感謝をしながら、歩む必要があります。

 2.イエス様のように歩む道
 そして、もう一つ。この「狭い門」は、「一旦くぐったら、それでOK!それがゴール!」という門ではなく、「門の後ろに続いている、救いに至る道、天に至る道を」歩み続けるかどうか、も私たちに問うているのです。その道は、イエス様が歩まれた道です。
 イエス・キリストという門を通ったら、「イエス様のように歩む道」が待っているのです。それは、「この世的に成功した、恵まれた歩み」ではないかもしれません。しかし、その道、その歩みは「イエス様のように歩む道」です。
 狭い門を通ったから、「イエス様の歩み」が約束されているのではありません。かえって、「イエス様の門を通ったからこそ、私たちキリスト者には「イエス様のような歩み」が求められているのであり、日ごとにチャレンジされている」のです。人には「損と思える歩み」でしょうし、「自分自身も時には、苦しい歩み」でしょう。けれども、その歩みを続けるからこそ、私たちは「イエス様のいのちに生かされる」のであり、「イエス様の思いを知る」のですその道を歩む時、私たちは「神さまが、そしてイエス様がどれほど私たちを愛していてくださり、日々に私たちのことを目に留めていてくださるのか」を知るのです。そして、そのような歩みの結末にこそ、「天の御国」「栄光の門」が待っているのです。
 イザヤ書30:21。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」


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2016年05月01日

主日礼拝メッセージ「神さまに祈り求めますか」マタイ7:7〜12

 人気の遊園地USJのなかでも人気のアトラクションは、小説「ハリー・ポッター」を題材にしたものだそうです。マジックを使って、自分の思い通りのことが実現できる、というのが人気の秘訣なのでしょうか。実際の生活では、なかなかそんなふうに「思い通りに事が運ぶ」などということはないのですが…。

T.求めなさい、そうすれば・・・
 1.この御言葉を読む時
 聖書の言葉の中でも、似たような御言葉があります。マタイ21:22「信じて祈り求めるなら、なんでも与えられます」やヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい」など。他にも、ヨハネ14章や15:16などにも、同じような御言葉があります。
 けれども、間違えてはいけないことは、これらの御言葉は「ハリー・ポッターのまじない』とは違うということです。そんなことは当たり前でしょ、と思うかもしれませんが、私たちは心のどこかで、あのおまじないと同じように、聖書のみ言葉を唱えるだけで「願いがかなわないかな!?』と思っているのではないか、と思います。
 実際のところ、『どうすれば、私たちが願うとおりに」求め、探し、叩く通りに、応えていただけるのでしょうか。

 2.祈りが叶えられた経験がありますか
 皆さんの中には、「祈りが答えられた」経験のある方がおられて、その時のことを話してもらうことはできるでしょう。でも、多くの人が「祈りがなかなか叶えられない。答えてもらえない」という経験をしておられることと思います。私たちには、一体何が足りないのでしょうか。どういう求め方、祈り方をすれば、叶えられるのでしょうか。
 ハリー・ポッターの小説に出てくる少年たちのように、練習が足りないからでしょうか。それとも、何か、特別な呪文のようなものがあって、それを教えてもらってないからでしょうか。それを教えてもらうためには、特別に熱心に信仰するか、一生けん命奉仕しないといけないのでしょうか。

 3.「〜し続けなさい」
 新改訳聖書のこの箇所の脚注を見ると、「〜しつづけなさい。そうすれば〜」というふうに訳すことができるのだ、と説明されています。だったら、最初から『求め続けなさい、そうすれば与えられます』と翻訳してくれれば良いと思いますが。
 そのように翻訳していないというのは、叶えられない、答えられない理由が『〜し続けていないから』だけではないという意味でしょう。もちろん、「祈り続ける、求め続ける」ことも大切なことですが・・・

 4.この御言葉を思い巡らす時
 この御言葉を思い巡らす時、大切なことを教えられます。それは、この御言葉に耳を傾け、その御言葉に向きあい、その御言葉によって心を探られる時、『神さまが何を語ろうとしておられるのか』と思い巡らすように、と導かれるのです。
 それらの思い巡らしの中から教えられることは、1)私たちは、ほんとうのところ、「どうしてほしい」と願っているのだろうか、ということ。2)神さまが必ず答えを与えてくださる、と信じて祈り、求め続けるか、ということです。

U.何を求めているのか
 1.私たちの求めている祈りの答えは
 私たちは、この御言葉に励まされて、神さまに祈り、求めます。一生けん命求めます。時には、断食して祈り求めます。御言葉のとおりに、求めます → 捜してみます → 叩いてみます。脚注にあるように祈り、求め続けます。それでも、答えられず、叶えられない時があるのです。
 それで、どうなりますか? あきらめますか?いいえ、その時こそ、神様のご機嫌を伺うばかりでなく、私たち自身の心に問う必要があるのです。「私は、一体、何を求めているのか?」と。
 例えば、あなたが就職や進学、将来の結婚のこと、そして今悩んでいる人間関係のことなどを祈っているとします。私たちは、その「祈りの答え」を一生けん命求めます。でも、ひとつ、忘れてはならない、大切なことがあります。9、10節です。天の父なる神様は、『私たちに良き物をくださる」と約束されていることです。
 では、私たちはいったい「神さまに、何を求めているのでしょうか」。

 2.どうしてほしいのか
 ヨハネ5章に登場するベテスダの池で、38年も臥せっていた人に、イエス様は聞かれた。「よくなりたいか?」と。彼は、あまりに長い間、臥せっていたので、「自分が良くなりたいかどうか」すら、わからなくなっていたのです。私たちも彼と似ていて、「どうなってほしいのか」分からない時があります。
 私たちはさまざまな祈りをします。その祈りは、『テストで良い点が取れるように』であったり、『願っている学校に、願っている会社に入れるように』であったりします。でも、それが叶えられたからといって、『どういう人生を送ることを求めている』というのでしょうか。良い出会いがあり、良い人と結婚をして、赤ちゃんが生まれて、素敵な家庭を築きたいと願います。その願いは素晴らしいが、その願いが叶うとして、どのような生涯を歩もうとしているのでしょうか。
 私たちの祈り、願い、「求め、捜し、叩く」歩みは、ここに至るのです。「あなたは何を求めているのか」「あなたはどうして欲しいのか」、と神さまが問いかけておられるのです。私たちは、神さまのこの問いかけに「答える」事が大事です。私たちが、この問いかけにまごころから答え、神さまに祈り、願う時、それこそが、本当の私たちの心からの祈りなのです。

V.私たちの信じる神様は
 1.あなたの願うとおりに、と言われる神様
 ここまで、御言葉についてお話しをしてきて、どう思われましたか?「本当にそのとおりだ」と、信じることができましたか?それとも、「いやいや、それでもまだ、本当に神さまが応えてくださるかどうか、分からない」と言われるでしょうか。聖書の中で確かに、神さまはそのように約束しておらえれるのです

 2.聖書に記されている祈りの答えを見て下さい
 アブラハムやヤコブは何を祈り求めたでしょうか?エジプトにいたイスラエルの民は、荒野を旅した民は、何を願ったでしょうか?ダビデや多くの勇士たち、神様の御言葉を語り続けた預言者や民を導いた士師たちは?イエス様の12弟子や、福音宣教に立ち上がったパウロたちは、何を求めたでしょうか。
 彼らには、それぞれの祈りがあり、願いがありました。みんな、それぞれの心からの祈りでした。たとえば、アブラハムは「子孫、子ども」を求めたでしょう。荒野の民は、「食べ物や飲み物。約束の国での平安な暮らし」でしょうか。イエス様の弟子たちは、ある者は「右大臣、左大臣」になりたかったでしょうし、パウロは「出かけていくまちまちで、ひとりでも多くの人がイエス様の救いを信じ、受け入れる」事だったでしょう。みんな、バラバラの祈りと願いです。
 でも、共通しているのは、最終的に、「彼らそれぞれにとって」、最高の答えを神さまが与えてくださった、ということ。もしかすると、彼らの「願っていたものと違う」答だったかもしれません。あるいは、願った通りの答えが与えられた人もいるでしょう。最終的な祈りの結論は、「神さまは確かに、彼らの祈りと願いを聞かれた」こと、=そして、「それぞれの人にふさわしい祈りの答えを与えられた」ということです。

 3.神様ご自身をどのような方として信じているのか
 私たちが、今日の御言葉で確認すべきことは、神さまは私たちに「最善をなして、その生涯を導いてくださる」ということです。その神さまが私たちに、日毎に目を留めていてくださり、私たちに向かって「わたしに求めてごらん」「わたしのところにきて、わたしのふところから「あなたの答えを探してごらん」、「わたしのところに来て、わたしの戸をたたき、わたしが答えるまで叩き続けてごらん」と言っておられるのです。
 御言葉は、私たちに問いかけてきます。「わたしがあなたの祈りと願いに、答えられる神だと、信じているか」と。)私たちは、この信仰がなければ、「求め続ける」ことも「捜し続ける」ことも「叩き続けることもできません。私たち自身の心の中に、神様に対する「この信仰がないなら」、神さまに与えていただきましょう。神さまの側が、私たちを愛し、私たちを見出し、私たちのためにイエス様の十字架の救いを完成させ、私たちに「最高の答えを与えようと」しておられるのです。
 「インマヌエルの神」であるということ。それは、「私たちと共におられる」ということです。それだけでなく、私たちの日々の歩み、日々の行い、日々の思いに「寄り添ってくださる」ということです。私たちが経験した悔しさも悲しみも、痛みも喜びも、全部、共にいて「見ていてくださり共に喜び、共に受け止めてくださる」神様なのです。だから、「私たちの心を知って、私たちの祈りに、願いに答えようとしてくださる」神様なのです。
 だから、「わたしのもとに重荷を下ろしなさい」と慰めてくださるのです。だから、「わたしがあなたの砦、いわお、盾であり、あなたを守る神だ」と言われるのです。その神さまが、私たちが祈り求める時、パンを与えて欲しいと願っているなら、「最高のパンを与えてくださる」のです。肉を与えて欲しいと願うなら、「最高の肉を与えてくださる」のです。そのパンや肉は、私たちの求めているものとは違うかもしれません。でも、最高に「私たちの体を強め、私たちの喉の渇きを癒やす」物を与えてくださるのです。その最高の助け、慰め、励ましが、「イエス様の十字架」であり、「私たちの心に住まわれる聖霊なる神さま』なのです。
 ここまでして、「私たちに、最高、最善の答えを与えようとしておられる」神さまを、信じて従っていきましょう。
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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