2016年04月24日

2016年春のクッキングクラス

お待たせいたしました!! 今年も、リアママのクッキングクラスを開催します。

◯とき 7月1日金曜日、9:50〜
◯会費 800円/一人
◯メニュー スパイシーケージャン料理
◯定員 20名

定員になり次第、締め切りますので、お申し込みはお早めに。
申込先;082-928-8071(教会・中尾)

<クッキングクラス>のチラシ(1.5M)は、クッキングクラス2016.pdf

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主日礼拝メッセージ「裁いてはいけません」マタイ7:1〜5

T.さばいてはいけません
 1.さばかれないためです
 この言葉だけ聞くと、この世的な処世術だと勘違いしてしまいそうです。確かに、学校の道徳の教科書や、新入社員の心得帳みたいなところに書いてあっても、違和感を感じない「教え」です。この聖書の御言葉をそのように読んで、読み進めることもできます。信仰を持たないままでも、聖書の言葉は読むことができます。今日の箇所は、まさにそういう箇所です。あなたがだれかを裁くなら、あなた自身も相手から、あるいは他の人から、同じように裁かれることになるのだ、という人生訓、忠告、とも読めます。
 イエス様は、弟子たちにそのような人生訓を教えようとされたのでしょうか。弟子の中には、「雷の子」とあだ名されたケンカっ早い人もいたからでしょうか。沢山の人がいつでも、イエス様の周りにひしめいていましたから、人間関係のトラブルはしょっちゅう起こっていたでしょう。その度に、イエス様は間に入り、両方の話を聞いて、仲介をし、言い分を聞き、それぞれにちゃんと教え諭し、仲直りをさせていたのかもしれません。そんな時、考えられる忠告が「あなた自身が裁かれないために、他人のことをむやみに裁いたりしないように」という忠告だったとも考えられます。
 とは言え、イエス様は「大切な教え」ではあるけれども、「単なる人生訓」を語ったのでしょうか。

 2.だれが裁き、だれが裁かれるのか
 ここで、注意したいのが、いったい「だれが裁き、だれが裁かれるのか」ということです。普通にここを読むと、「裁いてはいけません」は「あなたが、あなたの隣人を裁いてはいけない」という意味でしょうか。
 マタイ18章に出てくる「友人に憐れみを掛けてやらなかった、王様から大きな借金を赦してもらった男」の例え話が出てきます。その箇所を要約してみると、「あなたがたがあなたがたの友に対して、憐れみのない裁きをしてはいけません。天の父なる神さまがあなたがたに、同じように、憐れみのない裁きをしないためです」という意味になるでしょうか。
 そのようにだけ、ここのみ言葉を読むとすると、「あなた自身が大目に見てもらうために、あなたもあなたの隣人を大目に見てやりなさい」という意味になってしまいます。決して、聖書は悪に対して、罪に対して「大目に見てやれ」とは言っていません。ですから、改めて、この箇所のみ言葉によく耳を傾けてみるべきです。

U.何のために裁くのか
 *そのために、3〜5節のみ言葉を読んでみましょう。
 1.自分の目の梁に気が付かないのか
 自分の目に刺さっている「梁」に気がつかないなんていうことは、有り得ません。そんなことになっているなら、自分自身の目が見えず、「前が見えるはずがない」ですから、友人の「目の中のチリ」なんて見えるはずがないのです。そんな馬鹿なこと、「有り得ない話」です。でも、「人をさばく人」の目には、「梁が入っているのだ」とイエス様は言われるのです
 つまり、「自分のことを振り返れ」「自分の襟を正してから、人の行動や言葉遣いに文句をつけなさい」ということです。「あなた自身の目、あなた自身の心の内」を見てみろ、とおっしゃるのです。隣人を正してやろうとする「あなた自身の心」を省みてみなさい、ということです。

 2.あなたの動機はどこにあるのか
 友人のことを本当に心配して、チリを取り除けようとしているのでしょうか。もし、「自分の目に梁が入ったままなら」、友の目を傷つけてしまうかも知れないのです。
 次は、「何のために裁くのか」「なぜ裁くのか」と、自分の心に問うてみなさい、ということです。親切そうな顔をして、「チリを取らせてくれ」と言っているが、自分の心の内にある動機はどのようなものでしょうか。
 相手を貶めたい(おとしめたい)だけでしょうか。相手を馬鹿にして、自尊心を満足させたいからでしょうか。優越感に浸りたいだけではないのでしょうか。神さまは私たちに問いかけておられるのです。「あなたは、そのひと言をどんな動機で口にするのか」と。
 本当に「友を助けたい」のであれば、「裁くこと」「やり込めること」でなく、「諭すこと」、「教えること」、「忠告すること」などが考えられるはずです。そこには、イエス様が私たちに向けてくださったように「愛が必要」なのです。相手の間違いを指摘し、弱さを突いてみても、「相手は痛い思いをし、苦しみを味わうだけです。決して、それで間違いを犯し、つまずいている友が、「立ち直ったり」「回復したり」するわけではない。
 「人のことを裁こうとする」私の心には、いったいどんな思いがあるのでしょうか。まずは、そこから神さまに示していただき、神さまの前に、悔い改め、私たち自身が赦していただき、神様によって「私たち自身の心の傷が回復される」必要があるのです。そして、神さまの愛と憐れみをいただいて、その神様の愛で、私たちも「私たちの友を見ることができるなら」、憐れみの心をもって、友に近づき、正しい心で忠告してあげることができるのです。

 ですが、この御言葉を「自分自身を振り返り、自分自身を反省してみなさい」という教えだけで終わらせてしまっていいのでしょうか。もともと、ここで教えられていたのは「裁いてはいけません」という他者との関係です。それでは、「裁かないでどうするように」と教えられているのでしょうか。

V.では、どうすればよいのか
 1.あなたの目から梁が取り除きなさい
 ここで、まず大前提として、私たちが「気づくべきことがあります」。自分の目から、「梁を取り除ける」よりも前に、気づくべきことがあります。

 @「裁き人の立場に立たない」
 私たちは、知らないうちに、無意識の内に「裁き人の立ち場に立っている」ことがあるのです。それが、「罪人の姿」です。自分の罪を棚に上げて、他人の罪をあげつらい、批判し、貶めている。自分が神さまでもないのに「裁き人の立場に立っていること」こそ、「偶像礼拝の根っこ」と言えるでしょう。
 この心が、事実、イエス様を十字架につけたのです。イエス様の裁判の場所に集まっていた多くの群衆が、イエス様のことなど「よく知りもしなかった」でしょう。でも、祭司長や律法学者の言葉だけを鵜呑みにして、「イエスというやつは、そんなに悪いやつだったのか!? では死刑も当たり前だ!! 除いてしまえ!!」と。
 今日、ここにいて、礼拝に席に座っている私たちも、「イエス様の十字架には関係ない」とは言えない。私たちも、「あの群衆たちと同じ心」を持っているのではないでしょうか。自分の罪を棚に上げて、「裁き人の立場に立っている」心がないでしょうか。
 このことを肝に銘じるべきです。「私は誰かを裁いていないか」「誰かを批判していないか」、それだけでなく、そのことを内心、喜び、楽しみ、悦に入っていないか、と。私たちは、自分自身の心に見張りを立て、しっかりと見張る必要があるのです。そうしないと、私たちの心はすぐに「鼻を高くし、自分自身を高く挙げ、人を見下ろすようになる」のです。

 A「私の目に梁がある」ことを自覚して、「ヘリ下り、謙遜になる」
 詩篇 141:3 「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」
この御言葉により、自分自身の心をしっかりと見つめ、自分を「裁き人の立場に置かない」、このことを肝に銘じ、そのように歩むべきです。

 2.チリを取り除いてあげなさい
  *以上のことをしたうえで、ようやく「友の目から、チリを取り除けることができる」のです。
 @愛をもって
 これは、どこまでも「イエス様を模範に、イエス様をお手本に」です。まずは、「愛をもって」その人に近づき、愛の心をもって相手を理解しようと努力し、受け入れるのです。

 A罪を正し、罪を赦す
 聖書のみ言葉で相手を攻撃するのでなく、相手を「正しい、神さまの喜ばれる道へと導く」のです。それは「正す」だけでなく、「赦し、受け入れる」ことが必要です。

 B関係を回復する
 この最後のポイントが大事です。批判するだけ、裁くだけでは、人との関係が壊れてしまいます。でも、「チリを取り除く者」「愛をもって、正し、赦す」者は、その関係が回復するのです。もし、私たちが誰かに言葉を発したいなら、それが「相手を赦し、受け入れ、関係を回復し、関係を気づきあげるものなのか】を、自分自身に問うべきです。
 第1コリント 10:23の御言葉=「 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」

 C神さまが、私たちに願っておられること
 すべての人の祝福の基となることが、大切なポイントです。私たちをとおして、人々が「神様を知る」こと、「神さまに出会う」ことです。イエス様の十字架が、「彼自身のため」であることを知り、イエス様の十字架のもとに「罪の重荷を下ろし、罪の赦しを経験する」ことです。彼らが、神さまからの祝福を受けること。彼らが「罪赦される』だけでなく、イエス様のいのち、永遠の命に生かされて、次の人々の祝福の基となっていくこと。彼らが、そのような幸いな人生を歩み始めること、それがこの御言葉をとおして、「神様が私たちに与えてくださる祝福」なのです。 
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2016年04月10日

主日礼拝メッセージ「天に宝をたくわえなさい」マタイ6:19〜34

 マタイの6章から「主の祈り」を共に学んできましたが、本来の6章の御言葉に戻りましょう。今日の箇所は、その中でも「主の祈り」に続く箇所です。6章前半では、「神さまに祈る時」心に留めることが教えられていましたが、今日の箇所からはガラッと様子が変わり、語っておられるテーマが変わっています。

1.宝を地上にたくわえるな
 1)「パナマ文書」を知っていますか? 
 今、世界中の新聞やテレビを賑わしているニュースです。この国の、ある法律事務所からリークされた1000万部を超える機密文書のことです。世界中の多くの国の政治指導者やその家族、親族、あるいは有名な俳優やスポーツ選手が、「タックス・ヘイブン」と呼ばれる地域で会社を立ち上げ、そこに自分たちが得たお金を貯めこんで、自国での税金逃れをしていた、という事件です。事件の中身の一つ一つは、日曜礼拝で話すような内容ではないので、詳しくは話しません。
 この事件をとおして教えられることとは、何でしょうか?「あんなにもたくさんの国の指導者たちが、脱税という違法行為をしているのか」という話ではないのです。もし私たちが、「あいつらは間違っている、犯罪を正せ」と叫んでいるだけだとすると、自分たちも「地上に宝をたくわえたい」と思っている、願っているということ になるのです。「できることなら、私たちもやってみたい」「自分も同じように、富を増やしたい」と考える のです。つまり、その事件の中心は「地上に宝を蓄えよう」としている【その心、その欲望】です。それを、この箇所でイエス様が「止めなさい」と言っているのです。

 2)地上にたくわえようとする心 
 金銭を手元においておきたいという「独占欲」「所有欲」があります。1タラントを預けられたしもべは、タラントを地に埋めておいたのです。彼も、他のしもべ達のように「働いて、儲ければよかった」のです。でも、彼は「もし失敗して、主人にあずけてもらったタラントをなくしてしまったら」と考えると怖くて、【土の中に隠しておいた】というわけです。宝があれば、安心でしょうか?平安ですか?満足でしょうか?幸せなのでしょうか? 

 3)イエスの教え:「地上に宝をたくわえるな」 
 その理由は、「虫に食われ、錆びて、キズ物になる。あるいは盗人に盗まれて」なくなってしまうからです。地上の宝は変わってしまったり、失くなってしまったり「永遠ではない」です。【地上に宝をたくわえた】ところで、あなたの幸せは約束されないし、平安も、満足も必ずしも得ることはできないのだ、ということです。

2.宝を天にたくわえなさい 
 1)天に宝を積む・蓄える生き方とは? 
 私たちは「天に宝をたくわえる」ということを、どのように理解しているでしょうか?分かったつもりでいますが、【改めて問われると】いかがでしょうか。 改めて、「天に宝を積む、蓄える」とはどういうことか、を考えてみるべきです。素朴な質問として「もし神様にすべてをお委ねしてすべてを献金していたら、私の将来の生活はどうなるの?」と心配になる でしょうね。

 2)この教えの大前提 
 「地上のものに頼って」あなたの平安を得ようとするな、ということです。日々の平安を、安心を「何に頼って得ようとしているのか」と心のあり方が問われているのです 。「年金が用意してあり、保険に加入している」と安心だ、と思っていませんか?毎年、ちゃんと健康診断を受け、定期検診をしていれば、安心だ、と言っていないでしょうか?それらのものがあれば、「確かに安心」だけれども、それで私たちの将来の「平安、安心が保証される」わけではない のです。

 3)何によって『平安を得るのか」 
 そのことは何度も、すでに「山上の説教」で語られています。5章の「〜な者は幸いです」や、6章の善行をする時は、などをとおして、お話しました。私たちの心は、いつも神様ご自身に向かっているでしょうか。私たちの心が、いつも神様の御心を求めているでしょうか。それが「神様に委ねる」ということであり、『地上のものに頼らず、神さまに頼り平安を得る」道です。 

 4)なぜ、神様に委ねれば平安なのか 
 20節では、天では地上のように「虫に食われたり、錆びたり、盗まれたり」しないから、といわれています。何よりも、神様ご自身が「私たちにとって、本当に必要な物をいつでも備え、与えてくださるから」です。 それは、25〜34節に記されています。空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、と。
 特に、33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」ということです。私たちが、日々の生活のことで、『神さまを第一としているなら」、神さまがすべての必要をご存知で、それらのものは「加えて、与えられます」と約束しているのです。神さまにお任せしておけば、何より、私たちは「無駄な心配をしないで済む」のです。盗まれないか、虫に食われないかと、気にする必要はないのです。神さまは、その日その日に十分な恵みを私たちに与えてくださるのです。私たちは、それで満足し、それで安心し、それで身軽に日を過ごすことができるのです。それが、「天に宝をたくわえる」ということです。

3.「ふたりの主人」に仕えることはできない 
 1)勘違いしてはいけないこと 
 「天に宝を積む」とは、神さまからの報いを受けようとして、善を行うことではありません。神様からの報いを期待していけないわけではないが、神さまご自身のこと以上に、報いに心がとらわれるとしたら、それは「天に宝を積んだことにはならないのだ、ということです。

 2)24節「ふたりの主人に仕えることはできません」
 二人の主人とは、@地上の宝と A天の宝つまり神様ご自身のことです。その両方に仕えよう、その両方を手に入れようとすれば、両方を見失うことになるのです。【一石二鳥】ということわざがありますが、この箇所が教えるのは、「二兎を追うもの、一兎を得ず」ということわざの方でしょう。 

 3)具体的にはどうすればよいのか? 
  *ここで、「3つの問いに答えてみましょう」
   @何を求めているのか?
 私たちが、本当に心から求めているものは何でしょうか?車でもなく、家や家電でもなく、美味しい料理を食べることや豪華な旅行に出かけることでもない。そんなことではなく、「穏やかな心の平安」であり、「将来に対する安心」であり、「いま与えられているもので満足する幸福感」ではないでしょうか。

   Aなぜ蓄えたいのか?
 まずは、私たち自身の心、私たち自身の心の動機を「見つめなおしてみたい」のです。
a.なぜ、今与えられているものだけでは不十分と考えるのでしょうか。
b.どうして、他の人が持っていると、『私もそれを手に入れたい」と思うのでしょうか。
c.そもそも、明日は何が起こるのかわからないのに、「どうして、私たちは明日を見通す水晶球」を手に入れようとするのでしょうか。
 自分自身の心、私自身の心の求めが、どんなふうに働いているのかを知る事が必要があります。そのためには、自分に正直になる必要があります。自分の心の内にある、「弱さにも、人のものを欲しがる貪欲さや醜さ、傲慢さに気が付き、「神様の前に、正直に認めて、赦していただく、癒やしていただく、変えていただく」必要があるでしょう。

   Bどうすれば得られるのか?
 私たちが求めているものは、自分がなんとか頑張れば、「手に入りますか」?本当に与えることができるのは、「神様以外にいない」 のです。神さまが、私たちに必要な物をご存知です。神さまが、私たちのすべての必要を満たすことができる のです。

 4)天国に宝を蓄えるとは 
 この世のものに心捕われず、それらのものに思いを奪われないことです。「私たちを愛し、私たちを生かしてくださる」神さまに思いを向けることです。神さまの思い、御心を第一とすることです。 
 与えられているものに目を留めるのです。あなたに、何が与えられているでしょうか。時間ですか。それは自分自身のものですか?賜物、才能、自分自身すら、神さまが私たちに与えてくださったものです。
 自分のために用いるのでなく、神を愛し、人を愛して用いるのです。与えられている「地上のもの」を、神さまのため、神さまの御心のために用いることです。
 私たちに与えられているものを用いて、「人々を祝福していく」ことこそ、神様の御心です。創世記12章にある、アブラハムに対する約束のように、です。そして、私たちにも「あなたに与えられたイエス様からの恵みを、他の人にも分かち与えなさい」と教えているのです。 
 私たち自身が、『神さまを第一として生活し、そこに喜びと平安を見出していく』。そのことを周りの人々にも、見てもらう、知ってもらう、そして『お分かちする』。それが、「天に宝をたくわえる」生き方です。そのように生きることが、「私たちにとっての最高の生き方」となるのです。そのような宝は、「だれも奪うことはできず、だれも壊すことも、傷つけることも出来ない」祝福に満ちた生き方なのです。
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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