2016年03月20日

主日礼拝メッセージ「試みに会わせないでください」主の祈りE

T.試練とは、試みとは
 1.試みは「神さまから来るのか」
 入門クラスの学びをしている時など、よくこの質問をされます。「神さまは、私たちを試練や試みに会わせることがあるのですか」と。この質問をされる方々は、多くの場合、「ほんとうに辛い、苦しく、厳しい経験をしておられる、まっただ中におられる」のです。その質問の裏側には必ず、「どうして神さまは、今、私に試練を与えられるんでしょうか」という「どうして私に」という問いが隠されています。その方が経験されている苦しみや痛みを考えると、そんなに簡単に「答える訳にはいかない」気がします。
 私たちも神様に「なぜですか、どうしてですか」と問いたいおもいになります。東日本大震災を経験した人々や1995年の阪神・淡路大震災を経験した人々もそうでしょう。あるいは、思いがけない交通事故や犯罪に巻き込まれてしまった人々も、同じ思いでしょう。
 新約聖書にはヨハネ9章に、「彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか」というでしたちの問いかけが載っています。人は理解できず、受け止められないことがあると、「なぜなのか」と問いたいし、「だれが犯人なのかを見つけて、責任を負わせたい」思いがあるのです。それが、私たち人間の普通の受け止め方、だと思います。

 2.どんなに尋ねても「試みの中には」答えはない
 私たちは、「苦しみの理由や悲しみの目的」が知りたいのです。分からないから不安だし、知らないから苛立ってしまう、と思うのです。でも、それを知ったからといって、慰められたり、納得できたりするでしょうか。
 神様が、今、経験している苦しみの意味を説明してくれたら、納得できるでしょうか。いいえ、多分、次には「神様に対する怒り」が起こってくるでしょう。「どうしてですか?」と。かえって、「苦しみは深くなる」と思います。その理由を「先に教えられたら」、素直に『試練に従えるでしょうか。たぶん『神さまは私にはその試練に耐えられるとは思えません。絶対に嫌です』とこたえるでしょうね。
 聖書を読んでも、神さまは「なぜ」に答えていないのをみつけます。アブラハムの試練の時。愛する息子イサクを捧げよ、と言われた時。神様はアブラハムに「なぜ」とは説明されませんでした。ヨブの試練の時。財産を奪われ、子どもたちの命を奪われた時も同じでした。この2つは、聖書に登場する「代表的な、神さまが与え、神さまが許された試練」です。でもどちらも「神さまは、試練の前にも、試練の最中にも、彼らにそれを説明しておられないのです。

 3.試みが終わった時
 神様はこころみがおわったとき、「その理由」を納得させてくださるのです。「振り返って」初めて分かるのです。そこに、神様が共におられたことが。その試練をとおして、神さまが何を教えようとしておられたのか、が。アブラハムの場合では、振り返った時、「主に委ねること」「神さまに信頼すること」が試されていたのだ、と分かるのです。出エジプトの民たちは、荒野での試練をとおして、「偶像礼拝の罪から離れて、神に対する信仰を持って歩むことを試されていた」と、振り返って分かるのです。
 私たちが経験する「試み」も「試練」もそのようなものです。では、この祈りから、私たちは何が教えられ、どんなメッセージを受け止めればよいのか?

U.そのように祈って良い
 1.試練も誘惑も確かに存在する
 この祈りからおしえられることは、私たちの日々の生活には「試練も誘惑も確かに存在する」ということです。
 私たちがアダムの子孫として「罪の中に生まれ、罪の中に生きている限り」苦しみも試みもあるのです。でも、神さまは私たちの苦しみや悲しみを「ちゃんと知っておられる」のです。だから、そのように祈れ、とイエス様は負われるのです。
 私たちの痛みに苦しむ姿を知ったうえで、「このように祈りなさい」と導いてくださるのです。神さまは「苦しみがあることを知っている】ので、「取り除こう」としているのではないのです。苦しみの中から、痛みや悩みの中から、祈ることを、助けを叫び求めることを、場合によっては「神さまに向かって、胸ぐらをつかんで揺さぶり、食い下がるほどの祈り」を求めておられる

 2.「助けてください』と祈り願ってよい
 そのように祈ったからといって、必ずしも助けが約束されているわけではありません。その祈りを聞き、私たちを守り、導こうとされる「神様が共にいてくださる」と約束を表しているのです。そのような「試練と祈り」の経験をとおして、神さまにすがり、神さまを心から信ずる信仰に導かれるのです。
 あなたは、クリスチャンは【弱音を吐いてはいけない】と勘違いしていませんか!?私は以前、詩篇の作者が「神さまに叫ぶようにして、助けを祈り求めている」詩篇が好きではありませんでした。でも、年令を重ねる内に、「解決が与えられた」喜びの箇所よりも、「神さまに叫び求めている」箇所に目が止まるようになってきました。「苦しいから助けてくれ」、「どうしてこんなにつらい経験をするのか」などなど。それらの詩篇から教えられることは、私たちは、弱音を吐いてよい、ということ。神さまに助けを求めることは、決して「弱い者」や「人生の負け犬」だけがするものではない、ということです。
 よく「宗教に助けを求めるなんて、弱い者のすることだ」と、批判する人がいます。しかし神様は言われるのです。「いいえ、あなたは私に助けを求めてよいのだ。あなたは弱くて、私に弱音を吐いてよい。わたしがあなたを祈りと願いに耳を傾け、あなたを支え、あなたを助けるので、あなたはどんな強い人よりも強いのだと、神様は言われるのです。

 3.イエス様もゲッセマネの園で祈られた
 今週は受難週です。ぜひ、十字架に向かうイエス様の姿に、目を向けて欲しいと思います。木曜日の夜には、イエス様もゲッセマネの園で「同じように祈られた」のです。「この杯を私から遠ざけて下さい」と。イエス様がそのように祈られたのなら、私たちも「同じように祈ってよい」のです。私たちも「できることなら、この杯を取り除けてください」と祈ってよいのです。もしできるならイエス様と同じように、「御心がなりますように」と祈れるものでありたいとおもいます。

V.試練をとおして与えられるものがある
 ヤコブ1:12には「試練に耐える人は幸いです」と、書かれています。なぜでしょうか。
 1.なぜ、イスラエルの民は荒野の経験をしたのか
 試練を思う時、「40年の間、荒野でさまよった」イスラエルの民を思い起こします。エジプトにいるままでは、神さまは彼らを祝福できなかったのでしょうか。神様は「そこにいるままでも」、彼らを助けることができたはずです。それでも彼らを荒野に導かれ、彼らに苦しみを経験させたのは、なぜでしょうか
 それは、彼らが偶像礼拝の罪から離れるため、でした。荒野で困難を経験し、偶像の神では役に立たないことを知る必要があったからでしょう。彼らは、荒野で喉の渇きを覚え、空腹に苦しんだのです。後ろから迫ってくるエジプト兵に怯え、前に広がる海を見て、絶望を感じたのです。その時、彼らが気づき、決別すべきは、「偶像の神」であり、人の力だった。
 荒野の困難の中で、『主に信頼する者は、見捨てられることがない』と経験する必要があったのです。だから神さまは何の助けもないはずの荒野で、うずらの群れを彼らに遣わし、岩から水をほとばしらせ、毎朝、マナを降らせられたのです。紅海とヨルダン川で2度も、海と川が立ちふさがるところを、「神の手で彼らを乾いた所を渡らせたのです。「偶像の神に」ではなく、「天地を造られた、まことの神にこそ救いがあり、命がある」と彼らに教え、知らせるために、荒野へ導かれたのです。罪から離れるため、偶像から離れるため、でした。

 2.金は火で精錬され、銀はるつぼで
 箴言17:3には、「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」ということばがあります。どちらの金属を取り出すのにも、「火を通し、溶かして、不純物を取り除く」のです。神様は、困難、試練という「火を通して」、偶像礼拝という「不純物が取り除かれ」、純粋な「神への信仰」へと導かれるのです。
 私たちに「どんな不純物を取り除く必要がある」でしょうか。とっさの時に、偶像の神に助けを求め、人に寄りかかってしまうのか。私たちは、その不純物、不信仰に気が付き、それを後ろに捨てて、神さまに向かうべきなのです。
 試練は、私たちを「荒野へ追いやり、高い山へ向かわせる」のです。苦しみの中で、荒野へ行き、一人、神様の前に祈らなければ、神さまに出会えないのです。自分の力に頼り、人に頼り、偶像の力に頼っているうちは、「神さまに思いが向かない」のです。絶望の雲の下にいたのでは、神様の恵みの「陽の光は届きません」。そこから「高い山に登った時」、初めて、雲の上の太陽の日差しを見つけることができるのです。

W.今週は殉難週です
 イエス様も、私たちと同じように、この地上にあって苦しみを経験されました。何の助けもなく、自分一人で立ち向かわなければいけない、苦しみでした。そこで、イエス様はたびたび、神さまに祈りを捧げたのです。それが、イエス様にとっての「慰めであり、支えであり、力の源だった」からです。
 私たちも、イエス様の姿に倣って「試練の時に、苦しみの時に」、神様の前に出ましょう。神様の前にでて、私たちの心の中をさらけ出し、「神さま、助けてください」と祈りましょう。神さまは確かに私たちが祈る、その時、そこにいて「私たちの祈りに耳を傾けていてくださる」のです。
 その時、教えられることは、「苦しみの中で、神さまが私たちを知ってくださる」こと。私たちも「神さまの御手のうちにあって、平安に歩むことができる」こと。そして何より、「私たち自身の信仰が、神様に対する思いが、金カスや不純物が取り除かれて、神様の前にきよい、傷のない純粋なものへと変えていただくことができる」ということです。
 今週も苦しみの中にあっても、神様が共にいてくださるめぐみに目を留めて、歩みましょう。


posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

主日礼拝メッセージ「私たちの負い目をお赦しください」主の祈りD

T.この祈りを祈る時
 この祈りを祈るとき、いろんな思い、疑問が湧いてきます。
1)まずは、私の罪を赦してもらうのが先か、私が誰かの罪を赦すのが先か、です。
2)なぜ、毎日、「罪の赦し」を祈らなければいけないのだろうか? 神様は、イエス様の十字架を信じた時に、たった一度の罪の告白で「私たちのすべての罪を赦してくださった」のではないのでしょうか? 入門クラスの時には、そう習ったはずなのに。
3)果たして私たちは、「兄弟姉妹の罪を赦す」ということが完全に出来るものなのだろうか? 私たちは誰かと喧嘩になると、すぐに「絶対に赦さない」などと口にしたりします。そんな傲慢で、すぐ人を裁いてしまう罪深い自分が果たして、「人の罪を心から赦す」などということができるのでしょうか。だとしたら、私たちは本当に、その罪を赦していただけるのだろうか? ということは、「果たして、私たち自身の罪は、完全に赦される」ということがあるのだろうか?などなど、です。

U.赦すのが先か、赦されるのが先か
 1.他の御言葉が教える赦し
  マタイ18:21〜35「7度を70倍するまで」と教えられたイエス様。
  ここは、王様に1万タラントの借金をした人のたとえ話です。100デナリの借金をした友人を許してやらなかったので、王様も彼を許さなかったというもの。100デナリは100万円、1万タラントは6000億円。とんでもなく桁違いの赦しです。

 2.どちらも切り離すことができない
 この箇所から分かることは、「どちらが先と言われていない」ということです。文語訳の「主の祈り」だけを見ると、「あなたがまず赦しなさい」と読めます。でも、その他の箇所も読むと、別に「どちらが先に」と書いてあるわけではないのです。人間的な思いからしたら、「相手がまず謝ってくれないと赦せない」というのが私たちの正直な心情だろうと思います。
 でも「神様がまず、私たちを愛して、私たちの罪を赦す」十字架の救いを完成されたのです。第1ヨハネ4:10には、「まず神様が私たちを愛し、その罪を赦してくださった」ことが教えてられています。つまり、私たちが誰かを赦すことの根拠がここにあるのです。まず神様が、私たちを愛し、その罪を赦すために救い主イエスさまを遣わしてくださったのだから、そのイエスさまの十字架を信じる私たちは、その神様の愛と赦しを受けて人々の罪を、負い目を赦していく必要がある、と分かるのです。
 先に挙げたマタイ18章のたとえ話には、「赦されたのだから、赦しなさい」とありますし、同時に「赦さないなら、赦されない」ともあります。つまり、私たちが「誰かを赦す」ことと、「神様が私たちを赦してくださった」ことは、切り離せない、神様の罪の赦しのわざに関わることだ、ということです。赦された者は赦すべきだし、赦すためには赦しを経験していないとできないことなのです。
 もし私たちが「誰かの罪を赦さない」というなら、その人の心には「まだ本当の罪の赦しのみわざが行われていない」ことと同じだ、ということです。

V.心から兄弟の罪を赦すことができるのか
 1.先日の新聞の人生相談から
 戦後70年経っても、原爆を落とし、多くの日本人の命を奪った「アメリカを赦すことができない」という相談が載っていました。相談に対する答えは、「日本がアジアの国々にしたことも忘れてはいけない。私たちは私たちの過ちを赦してもらうためにも、アメリカを赦すべきだ」というようなことが書かれてありました。その通りだなあとは思うものの、「その答えでは、相談者は納得しないだろうし、現実にアメリカを赦す気にはなれないだろうなあ、と感じました。みなさんだったら、なんと答えてあげますか?
 戦後70年が過ぎているというのに誰かの罪を赦すということは、そんなに簡単にできることではない、ということです。先ほど、「神様がまず私たちの罪を赦してくださったのだから」という話をしました。それは、その通りなのです。でも、それを「知っている」ことと、事実、その通りに「行えるかどうか」は、別物です。それほど「罪深い、そして傷付きやすく、壊れやすい人間の心の本質」だということです。
 2.人の罪を赦さないなら
 「赦せない」という人の話を聞くと、本当に辛く、大変な経験だっただろうと思います。そう思えば思うほど、「赦せなくても仕方がないかなあ」と思ってしまいます。しかしとても気がかりなことがあります。それは、赦せない」という思いにしがみ付いているということです。「赦せない」という憎しみを握りしめているのです。ご自分では、「そんな辛く、痛みのある経験を早く忘れてしまいたい」と願っていたりします。でも、よく話を聞いてみると、力の限りに握りしめているのです。「誰にも、この私の痛みは経験できないし、分かるはずはないんだ」と言って、握りしめているのです。「握りしめている」だけでなく、「その憎しみの鎖に繋がれている」ように見えるのです。その苦い思いが心を締め付け、忘れてしまいたい経験が鎖となって足に絡みつき、過去の出来事に引きずられて、今をまっすぐに、生き生きと歩めないでいるのです。「赦せない心」「憎しみ」を手放すことが、「赦し」の第一歩です。一足飛びに、「赦して、忘れてしまわなくても良いのです。
  まずは、「握りしめ、しがみ付いている事実に気がつくことです。つぎに、「憎むことに精力を傾けていることから離れる」ことです。それができたら、「相手を裁いている」裁きを神様に委ねることです。復讐することだけでなく、「相手が気づき、自分に向かって謝ってくれる」ことも、神様にお任せすることです。「赦せない心」「憎しみ」を手放すことが、本当の意味での【神様からの赦しを経験すること】なのです。

W.なぜ日ごとに「私たちの罪を赦したまえ」と祈るのか
 1.祈ることで神の愛と赦しを再確認するため
 ドイツのある教会では、毎日、このような祈りを捧げる習慣があるそうです。「主よ、私たちにどうしてもなくてはならぬものが、二つあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日毎のパンと、罪の赦しを。アーメン」と。
 前回、「日毎の糧をお与えください」と祈る祈りを共に見ました。神様は私たちの日毎のすべての必要をご存知で、それでも私たちはあえて、「私たちに必要なものを与えてください」と祈るのだ、と共に見ました。日毎に「罪を赦してください」と祈るのも、それと同じ意味があります。日毎にそれを祈りの言葉として口にすることで、「自分自身の信仰を確認する」のです。神様はそのように「私を愛し、私を支えてくださっているのだ」と確認するのです
 みなさんは、「どのようにして神様の愛を確信していますか。信仰の初歩を思い出して、その歩みを確認するでしょう。誰かに「信仰の証を話すたびに、私たちの、神様への信仰は再確認され、強くなる」のです。それと同じ意味で、この主の祈りを祈りたびごとに、「神様が私の罪を赦してくださっている」ことを確認するのです。
 よく外国人のご夫婦が、「毎日、アイラブユー」と言わないといけないのだ、と聞きます。本当は日本人の私たちもするべきなのでしょう。この祈りを毎日するのも、それと同じ意味です。
 「罪の赦し」は、たった1回で完結しています。でも、同時に、毎日毎日、神様の前に「この赦しの祈りを捧げるのです」。そうしないと赦してもらえないから、ではありません。毎日毎日、新しい罪を犯してしまうから、でもあります。それ以上に、「神様が与えてくださっている愛と赦しの恵み」を再確認し、その確信に固く立ち続けるためです。

 2.時には心から祈れないことがありますか
 時には、この祈りを「祈れない」と思う日もあるでしょう。口には出し、言葉は発しているけれど、「心からの、信仰を込めた祈りになっていない」こともあるでしょう。この祈りを祈らなければいけないのだ、と心に強く「責めを感じる」こともあるでしょう。それでいいのです。
 この「主が教えられた祈り」を通して、神様は私たちの心を知り、私たちは神様の愛と赦しの恵みを、日毎に再確認し、日毎に改めて、その恵みを受け取り直して、感謝死、一歩一歩と神様の恵みのみ座に近づき、礼拝を捧げるのです。
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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