2016年02月28日

主日礼拝メッセージ「日毎の糧をお与えください」主の祈りC

 今日の箇所は、主の祈りの後半のひとつ目の祈り。神様に向けての、前半3つの祈りが終わり、私たち自身の個人的な祈り3つの祈りの「最初の祈り」です。

T.この祈りを祈る時
 1.心から祈る
 この祈りを祈る時、「どのような思いを込め、どのような信仰を持って祈る祈り」でしょうか。自分自身の祈り、自分自身の心の叫びとしての「祈り」でしょうか。これまでの祈りもそうでしたが、この祈りは「今まで以上に」自分自身の心の叫びであるか、が表れてくる祈りです。
 エジプトを脱出したユダヤの民は、何もない荒野で『食べ物を求めて』神様に祈りました。彼らは本当に、真剣に、そして死ぬ物狂いで『日毎の糧を与えて下さい』と祈ったでしょう。もちろん、その時代にはまだ「主の祈り」はありませんから、この祈りそのものではないでしょうが。エジプトにいる時には、この祈りを口にしたこともなかったでしょう。神様に祈らなくても、「食べ物は与えられ、水に困ることもなかった』でしょうから。でも荒野で初めて、彼らは真剣に叫び求めたことでしょう。

 2.主に信頼するからこそ
 「日毎の糧をきょうもお与え下さい」という言葉に注目してみましょう。「日毎の糧」ですから、今日の分の食物、という意味です。それを『今日も与えてくださ』と祈るのです。別の言い方をすれば、『今日の分を、きょう、今、下さい」ということです。「今日の分も、明日の分も、明後日の分もください」ではなく、「私にとって、今日必要な分だけを、多すぎもせず、少な過ぎもせず、今日、お与え下さい」という祈りです。本当に『神様を心から信頼し、心から信用している人の祈り」です。
 ジョージ・ミューラーは1800年代のイギリスで、孤児院の働きをした人です。彼は祈りの人として、大変有名な人でした。一番多い時で、2000人を越す孤児たちを養っていたそうですが、「一度も、孤児院の運営のために献金して下さい」と人に頼んだことはないそうです。彼はいつでも、『この子どもたちを養って下さい』と天の父なる神様にだけ祈って、何度もの困難を乗り越えたのだ、と自伝に記されています。ミューラーの祈りこそ、『日毎の糧を今日もお与え下さい』という祈り、そのままのいのりです
 今日の祈りをとおして、マタイ6:33のみ言葉を思い起こします。「だから、神の国と神の義とをまず第一に求めなさい」と。そう言われると、それ以外のことが祈れなく、求められなくなってしまう気がします。でも祈りは、私たちに「日々の必要について、神様に祈って良いんだ」と教えてくれます。神様は、「毎日の必要」のような、とても日常的な、下世話な祈りの課題も、ちゃんと聞いてくださるのです。そして、それを祈っていい、と言ってくださるのです。でも同時に、この祈りを祈るとき、「お前は、神様が必ず、必要を満たしてくださり、私を守り、私を支えてくださると、信じて祈るのか」と、私たち自身の心の深い所に問いかけて下さる祈りです。この祈りを祈る時の大切なポイントは、「私はどのように神様を信じ、この言葉を口にし、告白しているのか」です。神様は、そこを見ておられて、そこを聞いておられて、私たちに答えてくださる。

U.なぜ、この祈りが与えられたのか
 1.荒野で与えられたマナに似ている
 この祈りを祈る時、思い起こす事があります。それが、エジプトを脱出したユダヤの民が荒野の旅路の間、毎日与えられていた「マナ」です。
 出エジプト16:13〜21を朗読。荒野で、パンもなく飲水もなく、苦しんでいた民が神様に叫び求めました。その祈りに対して、神様が空の鳥である『うずら』を与え、毎朝、露のようにして「マナ」を与えてくださったのです。マナも「この祈りの応え」も、「日ごとに与えられる」のです。マナは、毎日、一人ひとりが一日分を集めるように、と言われました。この祈りも「日毎の糧を、きょうもお与え下さい」と、ひとりに一日分の糧を祈り求めて祈るのです。
 なぜ、「日ごとに」なのでしょうか?どうして、2日分や1週間分、ではないのでしょうか?まとめて、約束も祝福も与えられたら、便利でいいと思うのですが・・・。マナは、欲張って何日分も集め、残ってしまうと、それは「臭くなって、蛆が湧いた」と書いてあります。「今日の分は、今日の分だけ」というわけです。

 2.あなたを試み、あなたを幸せにするため
 それにしても、神様はなぜ、荒野の民にマナを与えられたのでしょうか。その「なぜ」を知るために、2つの聖書箇所を見てみましょう。一つは、申命記8:11〜18です。約束の地カナンに入ろうとするユダヤの民に、モーセの遺言のようにして語られた神様の言葉です。この聖書の箇所は、びっくりすることが書いてあります。
・17節=それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためであった
・18節=あなたは心のうちで、「この私の力、この私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。
 つまり、私たちが多くの富と腹いっぱいの満腹で、【私の力で手に入れた】と神様の前に罪を犯さないためだ、というのです。

 二つめは、箴言30:8〜9です。
・8節「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養って下さい。」
・9節「私が食べ飽きて、あなたを否み、【主とは誰だ】と言わないために。」
 これらの御言葉は、どういう意味でしょうか?私たちの手に富があったら、私たちは「神様の前に罪を犯してしまう」と告白しているのです。私たちが、「神様の前に罪を犯さず、神様にだけ信頼して歩むため」には、私たちが裕福になりすぎたり、貧しくなりすぎてもいけない、というわけです。だから、「今日、一日に必要なだけの恵みと祝福を与えてください」という祈りにつながるのです。

 3.日毎に与えられるマナのように
 この祈りを祈る時、『どんな祝福が与えられる』と想像していますか。どのようにして、どれほど、神様は私たちに祝福を与えてくださるでしょうか。
 もし、【1億円ぐらいの宝くじがあたったら】どうでしょうか。そうしたら、教会の借金を払って、教会を増築して、設備を直して、壁や屋根をきれいにするのに、と。そんなふうに、いろいろと想像してみたりしますね。けれども、私たちが祈り求めるべき、神様からの祝福としての「日毎の糧」はそういうものではないのです。そうではなくて、私たち一人一人が「日ごとに神様の前にでて、聖書を開き、神様に心から祈る時に与えられる。その日その日の、聖書のみ言葉こそが、「日毎の糧」です。そのようにして、「日ごとに神様の前にでて、神様と交わることこそ、本当に与えられる「日毎の糧」であると信じます。
 神様は、私たちに「日毎の祝福を約束しておられます」。でも、それは「この地上的な富や欲望を満たすもの」ではなく、「神様と親しい交わり」こと、私たちに約束されている「日毎の糧」です。いのちのことば社で出版されている「デボーションガイド」の名前が、「マナ」なのは偶然の一致ではなく、そのような意味が込められた名前というわけです。今週も、日ごとに「神様の御言葉に接し、神様の恵みに生かされて歩みましょう」


posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月15日

2016年最初のジョイジョイキッズ

今年も2ヶ月に一度のジョイジョイキッズを行いますよ〜!!
お友だちをさそって、みんなで集まってね。

今回のジョイジョイキッズは、2月20日土曜日です。
10時から、待ってるヨ〜!!!


ジョイジョイキッズ160220.jpg
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □ジョイジョイ・キッズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

主日礼拝メッセージ「御心が地でも行われますように」主の祈りB

 イエス様が弟子たちに教えてくださった「主の祈り」の第4回め、そして主の祈りの中では神様に向かう祈りの第3回めについて、共に見ていきましょう。

T.このように祈れることは幸いなこと
 1.「主の祈り」を祈る前提
 この祈りの前提は、地上に「神様の御心がなされているようには思えない」からです。未だに、世界のどこかで戦争が行われ、血が流され、尊い命が奪われているからです。私たちの周りに目を向けると、地上の現実が見えてきます。先日、「大久野島」へ行ってきました。大戦中の「毒ガス研究所跡地」ですが、大変ショックでした。いくら戦争をしている時だからと言って、あのように「酷い兵器」をよく作ることができる人間の罪深い姿を思って、心が痛くなりました。そのような施設を見に行かなくても、私たちの周りの現実に目を向ける時、「そこには悲しくなるほどの、罪に溢れた地上の現実」の姿があります。それが、私たちの住む「地上の、世の現実」です。そのような現実がありながらも、イエス様が教えてくださるこの「主の祈り」を祈ることができることは、幸いなことです。

 2.この祈りは私たちの信仰告白
 この祈りを「主が聞いてくださる」と信じることができるからです。私たちの祈りがどれほど拙くても、どれほど自分勝手で、自分中心の祈りでも、です。イエス様が「このように祈れ」と言われるなら、そこには必ず「聞いていてくださる」神様がおられる、との保証があるからです。
 この祈りの通りに、「主がみわざをなさる」と信じることができるからです。それを信じて祈りを捧げられることは、幸いなことです。
 そこに、希望があるからです。私たちの生きている地上の現実には希望を感じられないかもしれませんが、私たちが祈りを捧げ、「信仰を告白する」神様は、確かにおられて、私たちの祈りに応えて「御心をなさる」からです。
 そこに、慰めがあるからです。私たちの祈りを聞かれる神様は、私たちがどんな思いでこの祈りを祈り、どんな状況の中からこの祈りを祈っているのかをご存知です。そのような神様が、私たちの祈りを「無視したり」、私たちの祈りを聞いても「御心をなさらない」はずはありません。
 もしかすると、私たち自身は「そのように信じて祈れない」時が来るかもしれない。でも、イエス様がそれでもいいから、「この祈りを祈ってごらん。私はその祈りを聞いたら、「確かにあなたの祈りと願いを聞いて、それを成し遂げよう」と約束してくださっているのです。私たちの側の信仰の度合いに応じてではなく、「主の祈り」が祈られることで「神様がその耳を傾け、私たちの思いを受け止め、御心をなしてくださる」という約束なのです。

U.どのようにして御心が行われるのか
 1.どのようにして、御心が地上で行われるのか
 私たちの住む罪の世の現実は、なかなか厳しいものがあります。この世の現実だけを見ていると、「そのような日が本当に来るのだろうか」と心配になります。神様には、どのようなご計画があるのでしょうか?
 ハイデルベルグ信仰問答・問い124に、次のように説明されています。問い124 「第3の求めは、何ですか」。答え「御心の天になるごとく、地にもならせたまえです。それは、われわれおよびすべての人間が、自分の意志を捨てて、ただひとり善なるあなたの意志に、いかなる抵抗をもなすことなく、聞き従う者となり、かくて、すべての者が、自らの持ち場と職を、天にいる御使のごとく、喜んでまた忠実に、勤める者とならせてください、ということであります。
 御心を行われるのは、神様ご自身ではなくて、神様が私たちをお用いになって「ご自身の御心を行われる」というのです。

 2.アブラハムの祝福にならって
 創世記12:1〜3に、神様がアブラハムに与えられた「祝福の約束」が語られています。あの約束は、アブラハムだけの約束でなく、そしてユダヤ人だけの約束でなく。今や、イエス様の十字架によって救われて、神の子供、神の家族、そして約束の民とされた私たちが、「この地上にあって、神様の御心を行う民」として立てられている、ということです。
 私たちは、「神のみこころを行うために」選ばれた存在です。私たちの家族や、この地に住む人々、まだ救い主イエス様の名前を知らない友人たちの救いのため、そして何より「彼らを祝福するための器」として私たちは、選ばれた存在なのです。
 この祈りは、「私たちの存在の意味」を全く変えてくれる御言葉です。神様の御心は、もちろん「私たちが罪から救われる」こと。でも同時に、「地のすべての民が、救われた私たちによって、祝福を受けること」。その祝福とは、もちろん、私たちと同じ「罪から救われて、神の子とされる」こと。それと同時に、「この地上にあっても、共にいてくださる神を知り、その方とともに歩むことで、「たとえどのような状況にあっても、幸いである」ことを信じて、日々を歩むことです。マタイ16:24のみことばを、もう一度お読みして終わりたいと思います。
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。