2016年01月31日

主日礼拝メッセージ「御名があがめられますように」主の祈り@

 先週から「主の祈り」について共に学び始めています。「御名があがめられますように」という祈りを、私たちはどのように受け止め、どのような信仰を込めて、祈っているでしょうか。

T.御名があがめられますように
 1.言葉の意味
 教会にいる人達ばかりでなく、「地上に生きる、すべての人々が神様を誉め讃えるように、神様に賛美と礼拝を捧げることができるように」という意味で祈っていると思います。
 でも、改めて「御名」ってどういう意味?「あがめられますように」ってどういう意味?と聞かれると、ずいぶん漠然と受け止めていると思います。

 2.神様ご自身を尊ぶ
 「御名」とは、「神様の尊いお名前」という意味です。当たり前のことですが、神様そのものが尊いのです。でも「神様」と直接お呼びするのは失礼だという考えて、「神様の御名」と神様ご自身を直接呼ばない、ぼかすような言い方をするわけです。
 「あがめる」とは、きわめて尊いものとして尊ぶ、という意味と国語辞書に書かれています。最近は「たっとぶ」とか「とうとぶ」と言っても、通じない言葉かもしれません。「神様ご自身がこの世の何にも勝って、尊ばれますように」という祈りです。

U.私たちの信仰が問われている
 1.「あがめられますように」とは
 多くの人は、主なる神様をあがめません。ほとんどの人は「天地の造り主であり、私たちの命の源である父なる神」を知ろうともせず、振り向こうともしません。かえって神様について主張すると、変な宗教ではないかと気味悪がったりする始末です。小学生の頃、「お前んちの神様は、アーメン、そーめん、冷そーめんの神様か!」とバカにされたものです。「知らないとはいえ、ひどいことを言うなあ」と小学生ながらにずいぶん傷ついたものです。
 多くの人はまことの神様を知らないので、あがめないのです。だから、「神様、世界中のみんなが神様のことを知って、あがめるようにしてください」と祈るのだ、と思っていました。確かにそうなのです。テレビで「進化論」についての番組が放送されて、「聖書が教えていることは神話であって、神が天地を造られたなんて嘘だ」と聞かされるたびに、「御名があがめられますように」と祈らなければと思います。この日本では「御名があがめられますように」ともっともっと祈らなければいけない状況があるのです。

 2.この祈りの主語は誰なのか
 文語訳聖書の「主の祈り」では、「御名をあがめさせたま」となっています。文語訳のこの祈りは、「私たち」が主語として想定されていると思います。「神様、私たちが、あなたの御名をあがめることができるようにしてください」という祈りです。そうであるとすると、この祈りが「あなたは、父なる神様をあがめるべきお方として祈りを捧げているか」と、私たちに問いかけてきます。

 3.この時代にあって
 昨年は、第2次大戦から70年の節目の年でした。あの時代のクリスチャンが「天皇崇拝」という偶像礼拝の罪を犯してしまった、と悔い改めの祈りを、私たちも捧げます。果たして、私たちだったら「あの時代に生きていて、「御名をあがめさせたまえ」とだけ告白して、天皇礼拝をしないでいられたのか、と真剣に問われるところです。
 この祈りは、どのような祈りよりも先に、まずこの祈りから始めなさい、と教えられた祈りです。でも私たちは自分の健康や日々の糧、あの人、この人のことを祈り、最後に時間があったら、「この国のこととこの国の指導者たちが主の御心を行うように」と祈るのかもしれません。しかしイエス様は、「神様に捧げるすべての祈りの中で、真っ先に【御名があがめられますように】と祈りなさい」と弟子たちに教えられたのです。
 このように「難しく、きな臭くなってきた」時代だからだけでなく、平穏なときにも、不穏な空気を感じるときにも、まず「御名があがめられますように」と祈るように、と教えられるのです。この祈りは、私たちに対して『心からこの祈りを、神様に祈ることができるのか』と問うのです。そう思う時、思い起こされる祈りがあります。それが、ヨハネ12:27〜28節のイエス様の祈りです。

27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と
 言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をす
 でに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

V.あなたの御心のとおりに
 1.御名の栄光を現してください
 いよいよ十字架を前にした頃、「イエス様に会いたい」とやって来た人に対するイエス様の答えです。「御名の栄光」って何でしょうか。「すでに現した」と言われている栄光ってなんでしょうか。それは罪人を救いために「神のひとり子、キリストを地に遣わされた」神のみわざの栄光のことです。
 「もう一度栄光を現そう」って、どういう意味でしょうか。1回めが救い主キリストを遣わすということなら、2回めは「遣わされた救い主が罪人の贖いとなって、十字架で死んでくださる」ということです。だから「御名の栄光を表わしてください」とは、「神様の御心を行なってください」ということです。

 2.ゲツセマネのイエス様の祈り
 「御心を行なってください」といえば、マタイ26:39「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」との、イエス様のゲツセマネの祈りを思い起こさせます。イエス様にとって、それは「何より苦しく、何より茨の道」でした。イエス様ですら「できることなら、過ぎ去らせてください」と願うほどでした。でもイエス様の最終的な願い、最終的な祈りは「あなたの御心のようになさってください」でした。
 このイエス様の祈りこそ、「御名があがめられますように」との祈りの姿です。イエス様の個人的な思いや願いを優先させるのではない。イエス様を救い主として遣わされた「神様の御心が第一とされますように」との祈りです。

 3.イエス様の祈りにならって
 では救われたとはいえ、罪人の私たちにイエス様と同じ祈りができるのでしょうか。とても同じ祈りができるとは言えません。形としては、同じ祈りができるでしょう。でも私たちの心の深いところには、「私をお助けください」という自分勝手な願いがあるのです。イエス様ですら「できる事なら、過ぎ去らせてください」と祈られたほどなのですから、まして罪人の私たちが「100%神様の御心を求める祈り」などできるはずもありません。神様も、そのような事は百も承知です。それでも弱く、愚かな私たちに「御名があがめられますように」と祈りなさい、と励ましてくださるのです。
 何かの弟子である人たちは、ある程度、師匠の技を獲得し、身につけなければ」、一人前とは認めてもらえません。しかしいくら昨日入門したての弟子でも、すぐにも師匠の真似を始めなければ、いつまでたってもできるようにはなりません。キリストの弟子も同じです。イエス様の祈りと同じ祈りは、多分、天国へ行くまでできるようにはならないでしょう。では「御心のようになさってください」という祈りは、してはいけないのでしょうか。弟子は弟子のままで、おぼつかないままで、イエス様の祈りの百分の一、千分の一でいいのです。「あなたもやってごらんなさい、あなたもそのように祈ってごらんなさい」と勧められているのです。



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2016年01月24日

主日礼拝メッセージ「イエス様が教えられた祈り」主の祈り(序)

 今回から何回かに分けて、イエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」について学んでいきましょう。並行記事であるルカの福音書の「主の祈り」を見ていくと、この祈りが「弟子たちのリクエスト」でイエス様が彼らに教えた祈りだ、ということが分かります。文字通り、主が弟子たちに教えた「主の祈り」というわけです。


T.いつも祈る「主の祈り」

 1.主の祈りは呪文ではない

 主の祈りは、どんなことでも叶えてくれる「呪文」ではない。クリスチャンだけでなく、ミッションスクールに通っていたような人たちも、たぶん祈ることができるでしょう。教会学校でも教えられると思います。でも、この祈りを誰でもが唱えたからと言って、それで「魔法の呪文」のように何でも願い事が叶うというわけではありません。何回祈ったから「御利益がある」というような祈りではないのです。


 2.主の祈りは「基本稽古」のようなもの

 息子の剣道の稽古を見ていると、教えられることがある。始まりの20分位は、毎回、同じ基本動作を繰り返します。昨日、入門したばかりの初心者も、すでに5段、6段になっている指導者の先生たちも、一緒に同じ稽古をしますそれも、大変単調で、しんどい基本動作の繰り返しです。その基本稽古で、「自分自身のその日の調子が分かります」。身体が右か左にぶれていないか? 体重の移動がスムーズにできているか?どこか動きにくい体の部分がないか? 無理をしすぎて、このままでは怪我しそうになっている体の部分はないか? などなど。

 「主の祈り」もそれに似ている。日頃、同じ言葉、同じ調子で祈っている祈りでも、その日、「自分は何を心に留め、どこに思いが向かっているか」不思議に分かります。ある日は、「天にいます私たちの父よ」のところで、突っかかったりします。そうすると、「神様に対して、自分は何か引っ掛かりを感じているのかな」とか。別の日は、「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」のところが気に掛かります。何か、自分がほしいなあ、と思っているものがあって、「それほど気にしていない」つもりだったけで、「案外、自分がそのことに囚われている」なんてことにも気付かされます。

 祈るときには、いろんな疑問が、疑いが頭をもたげてくる。時には、どのように祈ればよいのか、と迷ってしまう。そんな時に、「祈りの本来の姿」を再発見させてくれるのが、この「主の祈り」です。


U.神の御名を呼ぶ

 1.天にいます

 一体、どこに向かって祈っているでしょうかある人は、「神様は人の心におられるので、胸に向かって祈るのだ」と思ったと言いました。そうではない。私たちの神は、「天におられる」のです。でも、その人の話は、私たちの祈りの姿を現している。私たちの祈りは、時として天に向かわないで、私たちの心に向かっているのではないか。頭を下げ、手を胸の前で組んで祈るでしょう。それはもしかすると、単に自分自身に「語りかけているだけ」かも知れない。本当に、天におられる神に対して祈っているのだろうか、と反省させられます

 「天に」という意味は、神様が「地」という限定された所ではないところにおられることを表しています。第1列王記8:30でソロモンは、「あなたのお住いになる所、天にいまして」と祈りました。それは「場所」としての空の彼方、という意味ではなく、神様の臨在を表している、と受け止めたほうが良いと思います。神様が臨在され、神様の全能の主権が及ぶ所、それが「天」です。神様の支配は、天国だけでなく、私たちの地上をも覆い隠すほどの力強い、そして大きな権威を持っているのです。


 2.父よ

 聖書の原文の主の祈りでは、「父よ」の部分が一番最初に来ています。「父よ」、「私たちの」、「天にいます」、の順です。つまり「神様への呼びかけ」の部分で、一番強調している、一番大事な部分です。私たちにとって神様は、どのようなお方でしょうか?「父よ」という言葉は、私たちと神様との「個人的な関係」を表す言葉です。

 神様との親しい関係を表しています。私たち人間が神様に対して、依存している関係を表しています。子どもが父親を全幅の信頼を置いて、呼びかけ、近づき、その胸に飛び込んでいくように、私たちも全く「父なる神様」を信頼して、信頼しきって祈ればよいのです。

 あなたにとって「神様」は、どのようなお方ですか?あなたが祈り、あなたが礼拝を捧げ、あなたが賛美するお方は、どのような方ですか。イエス様は、「神様は、あなたにとって「お父さん」のような、あなたを愛し、あなたをいつも心に留めていてくださり、あなたをすべての敵から守り、あなたを導く、力強く、心優しいお方だ」と教えているのです。


 3.私たちの

 さいごは、「私たちの」です。この「私たちの」という言葉に、主の祈りだけでなく、私たちが神様に祈るすべての祈り全体の性質をも表している、と思います。確かに祈りは、時には「とても個人的で、隠れた所におられる神に」祈るものです。でも、それは同時に「神様をとおして、主を信じるすべての人とつながっていく」教会的な祈りとなるのです。

 例えば、私たちが個人的な「病いの癒やし」や「人生の導き(結婚や就職、進学)」などの祈りをします。それらは、もちろん「個人的な祈り」ですが、多くの場合、一人で祈らないで、「教会のみんなで、祈りの課題を分かち合って、共に祈ります」。私たちはそれが「重く、困難な祈りの課題であればあるほど」、分かち合って、共にいのります。そうです、祈りは「ひとりで担うものではなく、教会の兄弟姉妹とともに重荷を分かち合って神様に祈っていく所に」、安心と確信と平安が与えられていくのです。


 さいごに。第1列王記8:30の神殿を奉献した時の、ソロモンの祈り。「主よ、聞いてください」。祈ったことに対して、御業がなるかならないか、「祈りがかなえられるか」どうかではない。神様との親しい交わりが、そこにあるという確信です。「主よ、どうぞ、私たちの思いを、私たちの心の中を知ってください」という祈りです。

 今週も、『私たちを子として受け入れてくださり、変わらぬ愛をもって導いてくださる」神様に信頼して祈りを捧げ、主を呼び求めて、歩んでいきましょう。

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2016年01月10日

主日礼拝メッセージ「隠れた所におられる神に」

 この箇所では、「人に見せるために善行をしないように気をつけなさい」(1節)と語っておられます。人々が「これこそ善行であり、神様がお喜びになり、ご褒美をくださる信仰の歩みだ」と信じていた事柄についてイエス様が語っておられます。

T.信仰による行ない
 1.ユダヤ人にとっての「善行」
  当時のユダヤ人は3つの善行、「施し」、「祈り」、「断食」を大切な信仰の行いと考えていました。確かに旧約聖書もそれを教え、イエス様も「否定しているわけではない」のです。今でも、ユダヤ人は「大切な信仰の行い」として守っています。

 2.私たちは「信仰の行い」についてどのように考えているでしょうか?
 私たちは「善行」という行いよりも、「イエス・キリストを信じる信仰」こそ救いの教えとして教えられています。だから、「しないよりはした方がいいが、余裕があれば」と考えてしまうところがあります。「祈り」についても大切だと教えられていますが、だからと言って「祈りの出来不出来、その量や質により、自分自身に与えられる救いが変わってくる」とも思っていません。「祈れる人が祈ったらいい。私は毎日の生活で忙しいのだから」と自分自身に対しても言い訳をしてしまいます。まして断食となったら、いったい私たちのうちのどれくらいの人が、積極的な意味で神様の前に断食をしているでしょうか。

U.何を期待して行うのか
 1.人に見せるために善行してはならない
 ここで共通して語られているのは、「人に見せるために善行を行うな」ということです。ユダヤ人たちは、人に見せるようにして善行を行っていました。あえて、人の注意をひくように「人前でしていた」ようです。祈る時も、わざわざ神殿のよく見えるところで、祈ったようです。断食するときも、わざとそれらしい格好をし、「やつれて見えるような」やり方だったようです。
 私たちはそんなことしないよ、と思うでしょうか。それは、国全体が『ひとつの信仰を持っている』ユダヤ人と、「人口の1%にも満たない」日本のクリスチャンとの「置かれている状況の違い」もあると思います。日本のクリスチャンは、なるべく目立たないように行動するところがあります。多くの人が集まるレストランで、大声で祈りません。海外の裕福なセレブたちは、『どこどこに寄付をした』とはっきり発表したりしますが、日本ではそんなことは聞きません。つまり、私たちは「わざわざ人に見せるように」善行はしない、です。では、「私たち日本のクリスチャンは、神のみ心に沿っている」と言えるのでしょうか。ここは『もう少しイエス様の言葉に、注意深く耳を傾けたい」と思います

 2.どのような報いを期待しているのか
 人から誉められることで、「すでに報いを受けてしまっている」からだと、イエス様は言っています。それらの善行は、本来「神様からご褒美として報いが与えられるべきものなのだ」ということです。『報いを期待する』事自体が否定されているわけではありません。神様が『誉めてくださる」ことや、神様が私たちの行いや祈りに答えてくださることを期待することが間違っているわけではありません。しかし人からの賞賛を求める行いは、自分自身を高く挙げ、「自分が誉め讃えられる」ことを求めているに過ぎないのです。動機付けが、問題なのです。行いの中身、行いそのものは、どのような動機によるのであれ、同じです。しかし「人に見せるための」善き行いと、「純粋に、神様(のみ心)に向かう」善き行いとは、その動機付けが違うのです。
 少年ダビデに「王としての油注ぎ」をサムエルに命じた神様は、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と、言われています。旧約の時代も、イエス様の時代も、そして今も、神様が私たちに求めておられる信仰、そしてその信仰から出てくる「行い」は、同じなのです。

V.神様の求めておられる信仰
 1.隠れたところにおられる神に
 6節に、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とあります。これと同じ内容が、4節、18節にもあります。どんなに「人に知られない」ようでも、神様が知っていてくださるということです。神様が見ていてくださり、神様がそれを認めてくださる、というのです。それは、私たちにとって「大きな励まし、慰め」です。
 「誰にも知られていない、誰にも認められていない」というのは、辛いものです。でも、「神様があなたを見捨てず、あなたを見放さない」ことを忘れてはいけない。神様は、私たちの表に現れている姿だけを、ご存知なのではない。私たちが日々に抱え、日々に感じている「心のひとつ一つの動きにも、目を留めていてくださるのです。人に見えるようになどしていなくて、かえって「隠すようにしている、小さな思いや信仰の歩み」をちゃんと知っていてくださる、のです。そして神様は知っているというだけでなく、「神様が報いてくださる」という約束もここにあります。
 神様の報いとは、どのようなものでしょうか?祈りの答えとしての報いがあります。病いの癒やしや、問題の解決、将来に対する確かな導きとしての御心が示されることも、神様の確かな報いでしょう。そうした直接的な報いだけを期待すると、がっかりする時もあります。

 2.「神様との交わり」という報い
 ユダヤ人たちの信じる「3つの善行」が導く先には、なにがあるでしょうか?左手に知られない「右手の行い」、奥まった部屋で「戸を閉めて祈る祈り」、誰にも気づかれない「断食(と祈り)」。これらの行いがもたらすものとは、何でしょうか?
 それらがもたらすものは、「神様との語らい」です。それらのことは、「すぐには応答はありません」。それらのことは、「人からの応答を期待できません」。そのどれも、「あなた自身を喜ばせないどころか、時にはがっかりさせられたり、下を向いてしまったり、「神様に不平を言いたくなる」かもしれません。その結果、待っているのはなんでしょうか?それは「神様との語らい」です。神様に文句を言いたくなるでしょう。神様を恨みたくなるかもしれません。神様の答えを聞きたくて、神様を探して歩き回りたくなるかもしれません。結果的に不信仰になったり、信仰を失ってしまう危険性もあります。
 でも、『真剣な施し』は、「真剣な祈り』は、『真剣な断食』は、不信仰には終わらず、信仰を捨ててしまう結果とはなりません。それらが真剣であればあるほど、『私たちは、隠れたところにおられる神様に語りかける」ことになるのです。「神様、どうしてですか?なぜですか!?」と。それこそが、神様からの報いです。隠れたところにおられる神様との「親しい交わり」という報いです。

 バアルの預言者たちと対決した後の「エリヤ」みたいです。決闘に疲れきったエリヤは、荒野に隠れて姿を隠します。彼は「神様、もう十分です。私のいのちを取ってください」と祈ります。神様はエリヤをケリテ川の畔に導き、その川の水とカラスの運ぶパンで養いました。その他にも、信仰的に辛い経験をした多くの信仰者が、神様との交わり」という報いをいただいたことが、聖書に記されています。約束の子どもがなかなか与えられなかったアブラハムも。殺人者として荒野に逃げていく経験をしたモーセも。アブラハムと同じように、子どもが与えられなくて苦しんだサムエルの母ハンナも。神様の預言者として召しを受けたからこそ困難を経験した多くの預言者たちも。それらの信仰者がみんな、「神様との交わり」という報いを神様から頂いたのです。
 私たちも、「信仰の試練を経験し、人からの賞賛や励ましを期待できない」時、神様に心が向かいます。信仰の先達たちの、書物を読みます。そうすると、神様が「私たちに親しく語りかけてくださる」経験をします。

 3.「隠れた所におられる神」
 ここで言われている『隠れた所におられる神』とは、「神様は、いつでも神殿の奥や、天の御国にいて、私たちがなかなかお会いできないような」場所に隠れている、という意味ではないのです。
 それは、神様が私たちに求めておられる「クリスチャンとしての歩み方」に関わることです。神様が私たちに願っているのは、行いよりも、神様に対する信仰。どのように歩んだか、ということより、神様との個人的な交わり。その「神様との交わり」とは、もちろん教会の礼拝においても、兄弟姉妹とともにいる所にも神様はおられて、私たちと親しく交わってくださるのですが、本当に神様が求めているのは「私たちとの個人的な交わり」です。人に見える、人に知られる、個人的な交わりではなく、隠れたところで、人に知られないで、「神様とだけの、親密な、個人的な交わり」です。そのような「神様との個人的な交わり」を表す言葉として、「隠れた所におられる神に」とイエス様は教えておられるのです。
posted by 五日市聖書教会 at 00:00| □メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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